池田氏(読み)いけだうじ

改訂新版 世界大百科事典 「池田氏」の意味・わかりやすい解説

池田氏 (いけだうじ)

(1)南北朝・室町・戦国期の摂津の国人。橘諸兄の後裔とする伝承があるが不詳。1363年(正平18・貞治2)の幕府文書に摂津守護赤松光範の被官として池田親政とあるのが初見。南北朝中期,守護より加茂庄(現,兵庫県川西市)の半済地をあてがわれ,また垂水西牧小曾禰村(現,豊中市)の番頭にも名がみえる。室町期には守護細川氏の有力被官となり,伊丹,吹田両氏と並ぶ摂津屈指の土豪に成長した。加茂,垂水のほか,細川庄,桜井郷など各荘園の代官を兼ね,給分を資本に高利貸も行って,応仁の乱ころは年収1万2000貫,〈富貴無双〉とうたわれた。戦国期に入ると,池田城に拠って豊島郡一帯の支配を強化し,一円的所領を拡大していくが,細川氏の内紛に連座してしばしば弾圧を受け,外様の被官として疎外されてついに守護代,郡代などに登用されたことはなかった。1539年(天文8)には将軍から直臣の待遇を受けたが,戦国大名化に失敗し68年(永禄11)信長に降伏して臣従した。
執筆者:(2)近世大名源頼光から4代目の泰政が鳥羽院の滝口で,美濃国池田郡本郷村(一説に可児郡池田村)に居住して池田右馬允と名のり,その子孫が代々池田を氏としたという。泰政から9代目の教依(のりより)の妻は,楠木正行に嫁いでそのたねを宿して正行の戦死後に教依に再嫁したといわれるから,教依の子教正は正行の遺腹の男とされ,ここに池田氏の楠胤説がうまれた。教正から5代目の紀伊守恒利は織田信秀に仕え,その妻養徳院は1536年(天文5)信秀の子信長の乳母になった女丈夫である。恒利の子恒興(信輝)は幼時から信長に仕え,尾張国犬山,摂津国大坂などに在城し,ついで秀吉に味方して美濃国大垣城主(13万石)となったが,84年(天正12)長久手の戦で嫡子之助とともに討死した。遺領を継いだ次男輝政(継室は家康次女富子)は岐阜,吉田などの城主となり,関ヶ原の戦の功でついに播磨国姫路城主(52万石)となった。やがて輝政の次男忠継に備前一国約28万石,三男忠雄に淡路6万3000石が下賜され,外様ながら輝政は〈神君の婿〉〈西国の将軍〉とうたわれて勢威を振るったが,1613年(慶長18)死去した。輝政の遺領のうち播磨西部3郡を除いた13郡42万石は長男利隆が相続して姫路に在城し,忠継は備前一国と播磨3郡を合わせて38万石を領して岡山在城となった。間もなく忠継は卒したが無嗣のため,弟忠雄が備前一国と備中の一部を合わせて31万5000石を領し,播磨3郡は輝澄,政綱,輝興の3人の弟に分与されたが,いずれも悲運に終わった。さて,姫路城主利隆は16年(元和2)に死去し,子光政は因幡・伯耆両国32万石に減封になって鳥取に在城した。一方,岡山城主忠雄は32年(寛永9)死去し,このとき備前と因伯両国との国替が命ぜられ,光政系統が岡山藩主,光仲系統が鳥取藩主となった。ともに松平の称を与えられ,国主。維新後,侯爵。光政の子政言(まさこと),輝録(てるとし),光仲の子仲澄,清定は分封を受けて,それぞれ備中鴨方,生坂,因幡国鹿野,若桜(わかさ)藩の藩祖となった。維新後,子爵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「池田氏」の意味・わかりやすい解説

池田氏
いけだうじ

池田荘(いけだのしょう)、池田郷などの地名にちなんだ氏族。美濃国(みののくに)(岐阜県)池田郡池田荘から興った池田氏、摂津国(大阪府)豊島(てしま)郡池田から出た池田氏、伊予国(愛媛県)周敷(すふ)郡池田郷から出た池田氏など。江戸時代初期に姫路藩主となった池田氏がとくに有名である。その祖は摂津池田氏とする説もあるが、1821年(文政4)美濃国池田庄(しょう)本郷村の龍徳寺境内から、池田家の祖恒利(つねとし)の戒名「養源院殿心光宗伝禅定門」と刻まれた五輪塔が発見されていることから、美濃池田氏と考えられる。その遠祖は源頼光(よりみつ)4代の孫泰政(やすまさ)で、初めて池田を称したという。泰政の9代の孫教依(のりより)は内藤満之の娘を娶(めと)った。彼女は、最初楠木正行(くすのきまさつら)に嫁したが、その討ち死にののち教依に再嫁した。その産むところの教正は正行の子と信じられ、池田氏楠胤(なんいん)説は池田光政(みつまさ)以後根強く続いた。教正の5代の孫が恒利である。その妻養徳院は織田信長の乳母(うば)となり、恒利の子信輝(のぶてる)(恒興(つねおき))は信長に仕え、本能寺の変後は羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))に加担した。信輝の子輝政は最初秀吉に仕えたが、徳川家康の娘富子(良正院、督姫(とくひめ))を継室に迎えて家康の信任を得た。関ヶ原の戦いの恩賞として播磨(はりま)52万石を賜って姫路藩主となり、ついで次男忠継(ただつぐ)に備前(びぜん)28万石、三男忠雄(ただかつ)に淡路6万石を賜り、輝政が総管したから俗称100万石といわれる。輝政の弟長吉(ながよし)も、関ヶ原の戦い後因幡(いなば)のうち6万石を賜り、鳥取藩主に封ぜられ、その子長幸のとき1617年(元和3)備中(びっちゅう)松山藩6万5000石に移されたが、その子長常に継嗣(けいし)なく、1641年(寛永18)断絶。

 1613年(慶長18)輝政の死後、遺領のうち42万石を長男利隆(としたか)が相続、10万石は岡山藩主忠継に加増される。しかし忠継は1615年(元和1)死去し、弟忠雄が岡山藩主となり、忠継遺領のうち10万石を弟輝澄、政綱、輝興に分与し、宍粟(しそう)藩(3万8000石)、赤穂(あこう)藩(3万5000石)、佐用(さよ)藩(2万5000石)をたてる。忠雄は母良正院の化粧料4万石を賜り32万石を領す。1616年利隆が死去し、嫡子光政が姫路藩主となったが、幼少のため鳥取藩主32万石に移される。1632年(寛永9)岡山藩主忠雄が死去し、嫡子光仲幼少のため、同年光政、光仲に国替(くにがえ)を命ぜられ、以後光政の子孫は岡山藩主、光仲の子孫は鳥取藩主を世襲して明治維新に至る。

[柴田 一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「池田氏」の意味・わかりやすい解説

池田氏
いけだうじ

江戸時代の外様大名。清和源氏。源頼光4代の孫仲政より出たという。池田の名はその地名によるが,美濃国池田荘からとも摂津国池田荘からともいわれる。戦国時代,池田恒利は,織田信秀に仕え,その子信輝は信長に仕えた。本能寺の変後,信輝の子輝政は豊臣秀吉に仕え,天正 18 (1590) 年には三河吉田に 15万石を領し,関ヶ原の役後は播磨姫路 52万石に封じられ,慶長8 (1603) 年には備前を,同 15年には淡路をも加え,総高 89万 9000石となった。同 18年には,長男利隆に播磨,次男忠継に備前,3男忠雄に淡路を分封。元和1 (15) 年,忠継の死により忠雄が備前を継いだ。播磨の池田氏は光政のとき,因幡鳥取に移封されたが,寛永9 (32) 年,光政は鳥取から備前岡山に移り,忠雄の子光仲が岡山から鳥取に移った。そののち,それぞれの子孫相継ぎ,明治にいたって,岡山,鳥取両家とも侯爵。初期の分家に旗本となった池田氏もある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「池田氏」の解説

池田氏
いけだし

戦国〜江戸時代の大名。備前岡山・因幡鳥取藩主
永禄年間(1558〜70),恒利 (つねとし) が織田信秀に仕え,子の恒興(信輝)は織田信長・豊臣秀吉の部将として活躍。その子輝政は関ケ原の戦いで徳川家康について功をあげ,播磨国52万石を領し姫路城主,のち備前・淡路を加封された。輝政の3子に3国を分封したが,孫の光仲が鳥取32万石,光政が岡山31万石を領した。

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世界大百科事典(旧版)内の池田氏の言及

【池田[市]】より

…《和名抄》に秦上・秦下郷が記されるように,渡来人の居住による開発が早くからみられ,平安後期には,院法華堂領呉服荘が成立,中世後期まで呉服の地名も用いられた。この地が池田と称されるようになったのは,南北朝時代,国人池田氏が台頭してからである。呉服荘は池田荘とも称したようで,池田氏はここを本貫として成長したのであろう。…

【岡山[市]】より

…周辺の開発は古く,弥生時代の津島遺跡のほか平地部北半に条里遺構があり,また造山(つくりやま)古墳(史),車塚古墳金蔵山(かなくらやま)古墳など大小の古墳も多く見られ,備前国府は旭川東岸の国府市場にあった。戦国時代に宇喜多直家が旭川沿いの丘陵に築城したのが都市形成の始まりで,その後,小早川氏,池田氏と交代したが,安定したのは1632年(寛永9)に池田光政が鳥取から入封して以来で,明治維新まで備前31万5000石の城下として繁栄した。廃藩置県を経て1876年に現在の岡山県域が成立すると,岡山は備前のみでなく,備中,美作を含む全域の中心となった。…

【大名】より

… (1)国主大名とは1ヵ国以上の国を領有する大名,1国に近い土地を領有するか,もしくは領地高が多い大名をいい,家数は時代によって変遷するが,おおむね幕末では次のとおりである。前田氏(加賀・能登等102万石余を領し金沢に住する),島津氏(薩摩・大隅等77万石余,鹿児島),黒田氏(筑前52万石,福岡),浅野氏(安芸等42万石余,広島),毛利氏(周防・長門36万石余,萩,幕末に山口へ移る),池田氏(因幡・伯耆32万石,鳥取),池田氏(備前等31万石余,岡山),蜂須賀氏(阿波・淡路25万石余,徳島),山内氏(土佐24万石,高知),宗氏(対馬10万石格,府中)の10家が1国以上を領有する大名としてあげられる。宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。…

【播磨国】より

…そしてそのあと,この高増しした村高を追認させる作業として,いわゆる二割打出し検地を行い国高を62.9万石(内高)とした。1603年には次男忠継に備前28万石,10年には三男忠雄に淡路6万石が与えられたから,池田氏は父子合わせて実に約100万石を領有する大大名となったわけである。一方,池田氏は01年から8ヵ年の歳月をかけて,秀吉が築いた城に代わる今日の姫路城を築いた。…

※「池田氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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