池田謙斎(読み)いけだけんさい

改訂新版 世界大百科事典 「池田謙斎」の意味・わかりやすい解説

池田謙斎 (いけだけんさい)
生没年:1841-1918(天保12-大正7)

維新から明治時代の医師で,日本近代医学の方向を示したパイオニアの一人。新潟県出身。入沢健蔵の次男で,幕府医員池田玄仲の養子となる。緒方洪庵に学び,1862年(文久2)西洋医学所入学。64年(元治1)幕命長崎の精得館に行きボードインAnthonius F.Bauduinらに学ぶ。68年(明治1)江戸に帰り,政府に用いられ大学大助教,小典医となる。70-76年ベルリン大学に留学。陸軍軍医監(のち陸軍一等軍医正),三等侍医(のち侍医局長)。東京医学校長を経て77年初代東京医科大学綜理,88年日本最初の医学博士号を受ける。98年男爵,1902年宮中顧問官。戊辰,西南,日清の各戦争に従軍するなど各方面で活躍した。
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朝日日本歴史人物事典 「池田謙斎」の解説

池田謙斎

没年:大正7.4.30(1918)
生年天保12.11.1(1841.12.13)
明治期の医学教育者,侍医。幼名圭助,のち兼輔。越後国(新潟県)蒲原郡西野新田生まれ。入沢健蔵の次男。安政5(1858)年3月兄恭平を頼って江戸に出て,文久3(1863)年2月20日江戸で緒方洪庵の門下生となった。同年11月長崎に遊学。はじめ洪庵の養子,のち種痘所医師池田多仲の養子となった。明治2(1869)年7月大学校の大助教に任じられ,翌3年宮内省の少典医を兼ねた。同年12月から9年5月までプロイセン(ドイツ)に留学し,帰国後の10年東大医学部綜理として,同学部の基礎づくりに専念,わが国近代医学教育の先駆的役割を果たした。31年2月男爵,35年9月宮中顧問官。<参考文献>『明治天皇の侍医池田謙斎』,長谷川つとむ『東京帝大医学部総理池田謙斎伝』

(深瀬泰旦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池田謙斎」の解説

池田謙斎 いけだ-けんさい

1841-1918 幕末-明治時代の医師。
天保(てんぽう)12年11月10日生まれ。緒方洪庵(こうあん)に師事し,西洋医学所に入学。幕命により長崎でボードインらにまなぶ。ドイツ留学後,明治9年陸軍軍医監,10年東京大学医学部初代綜理。21年日本初の医学博士となる。のち宮中顧問官。大正7年4月30日死去。78歳。越後(えちご)(新潟県)出身。本姓は入沢。初名は桂助,のち謙輔。

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