沖新田(読み)おきしんでん

日本歴史地名大系 「沖新田」の解説

沖新田
おきしんでん

[現在地名]岡山市江崎・江並・藤崎・桑野・沖元・光津・政津・君津・升田・豊田・九蟠・金岡東町三丁目

旭川河口右岸から吉井川河口左岸に至る上道郡南端児島こじま湾に臨んだ広大な浅瀬干拓して造成された新田の総称。竣工後、丁場(工区)をもとに一番・三番・四番・五番・六番・七番・外七番・九番の八ヵ村に分けられた。干拓を献策したのは津田永忠で、藩主池田綱政は永忠に工事総督を命じ、元禄五年(一六九二)に着工された。総工費約九六五貫(銀札換算)・人夫一〇〇万人余(延べ)動員、まず長さ六千五一八間(約一二キロ)に及ぶ潮止め堤防を築き、次いで付帯工事が推し進められ、翌六年末に竣工した(岡山県史)

沖新田
おきしんでん

[現在地名]水海道市沖新田町

鬼怒きぬ川・小貝こかい川に挟まれた沖積低地に所在。集落の東を八間堀はちけんぼり川が南流。西は中妻なかづま村。元禄郷帳に「古者中妻新田」の注があり、元禄一五年(一七〇二)の下総国豊田郡中妻村御検地帳(古矢家文書)の奥書に「寛文二寅年中妻村沖之新田と記ス、其後元禄年中ニ再御検地之節ニ御水帳拾三状之内弐状右新田渡シ沖之新田ニ改ニ成申候」とみえ、中妻村の沖之おきの新田が独立して一村となったもので、中妻新田とも称した。

沖新田
おきしんでん

[現在地名]土浦市沖新田

沖村の南に位置する。武州本郷ほんごう(現東京都文京区)の住人加賀屋彦兵衛によって開発された町人請負新田で、開発時期は一八世紀初めと思われる。彦兵衛は寛延三年(一七五〇)六月に死去し、村内の法華宗本法山妙向みようこう寺に葬られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の沖新田の言及

【児島湾】より

…高梁(たかはし)川,笹ヶ瀬川,旭川,吉井川の堆積作用で近世初頭には児島が陸繫され,西側は阿知潟,東側は児島湾となった。湾は北岸から干拓が進められたが,大規模なものとして17世紀の沖新田,19世紀の興除新田,明治期の藤田組による藤田開墾(藤田農場),第2次大戦後の六区および七区がある。1963年の七区完工により干拓事業は終了した。…

※「沖新田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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