泊村(読み)とうまいむら

日本歴史地名大系 「泊村」の解説

泊村
とうまいむら

[現在地名]那覇市とまり一―三丁目・前島まえじま一―三丁目

トゥマイと発音する。安里あさと川の下流から河口部にかけての両岸一帯を村域とし、河口にはとまり港がある。およそ北は天久あみく村、東は安里あさとう村・牧志まちし村、南は那覇町に接し、集落は村域東部から西部に連なる銀森なんじやむい黄金森くがにむい高真佐理たかまさり洋順毛えんじゆんもーの丘陵から安里川河口にかけての地域に形成されていた。この地域は「おもろさうし」巻一五の一に「あめくくち」とあるように、かつては天久村の一地域だったが、港が整備されるに伴い港町として天久村から分離したと思われる。康熙三九年(一七〇〇)建立の泊高橋とまりたかはし碑に「中山に事がある時には西北諸島の舟は皆この地を泊とする。故にこの地を泊村という」(原漢文)と村名の由来が記される。

英祖王五年(一二六四)に久米島・慶良間けらま島、伊比屋いひや(現伊平屋諸島)、同七年におお(現鹿児島県奄美大島)の諸島が琉球に入貢。以後毎年入貢するに及び、泊港に諸島を管轄する公館(泊御殿)と貢物を収貯する公倉(大島倉)が建てられた(「球陽」英祖王五年条・同七年条)。公館・公倉の建造場所はその後の聖現せいげん寺の敷地といわれ、現県立泊高等学校敷地に比定される。察度王四一年(一三九〇)には宮古・八重山が初めて入貢。このとき宮古島の首長与那覇勢頭豊見親は言葉(方言)が通ぜず、言語習得のため泊村に三年間逗留した。与那覇の従者高真佐理屋は宮古島への望郷の念から近くの丘に登り、そこで宮古の歌アヤグを謡った。のちに泊村の人々はこの丘を高真佐理、旧宅付近を高真佐理屋原とよんだ。乾隆三二年(一七六七)与那覇の子孫により旧宅跡に逗留旧跡碑が建立された(与那覇勢頭豊見親逗留旧跡碑文)。碑は沖縄戦で一部破壊されたが、一九八七年(昭和六二年)もとの場所近くの現字上之屋うえのやに復元されている。

景泰二年(一四五一)尚金福王は当時浮島とよばれていた那覇を陸地と結ぶため、国相懐機に命じて泊村の東、安里川に架かる安里あさと橋から那覇のイベガマにかけて石橋七座を含む堤(長虹堤)を造らせた(「球陽」尚金福王二年条)。これにより首里―那覇間の交通の便が図られ、那覇港は琉球王国の表玄関として一層整備されるに至った。一方泊港には成化二年(一四六六)鬼界きかい(現鹿児島県喜界島)征討を行った尚徳王が凱旋。港で泊村の住人呉弘肇の妻が王に清水を差上げたことにより、呉弘肇は泊地頭に、その妻は泊大阿母潮花司に任じられた(「球陽」尚徳王六年条、呉姓我那覇家家譜)

泊村
とまりむら

[現在地名]泊村泊

日本海に突出する甲亀こうき(八七メートル)西麓の海岸部に位置し、東は石脇いしわき村、西はその村。泊り村とも記された。伯耆国における良港の一である泊浦があり、伯耆国「灘手大所」の一とされ(在方御定)、また伯耆街道の宿駅でもあった。戦国時代には東伯耆の要衝として河村かわむら(泊城)があった。なお甲亀山は「伯耆民談記」に後亀山とみえ、「其形さなから亀頭の如し。今切通しの道あり。軍国の用に開きたるよし」とある。拝領高六五石余、本免四ツ九分。海役銀二〇〇匁が課されていた(藩史)。寛永二〇年(一六四三)泊番所が設けられた。幕末に作成された泊番所構海岸之図(県立博物館蔵)によれば、竈数一九三・男三二一。六郡郷村生高竈付では生高八七石余、竈数二三八。

万延元年(一八六〇)年貢を「御名人御切手」をもって蔵納したいと願っているが、その願書のなかで畑作・海稼および宿・浦手御用により生計を立て、年貢は正米買付によって上納してきたと述べている(在方諸事控)。文久二年(一八六二)当地清八宅に大坂の万歳芸者栄三郎一行が逗留した(「取調口書」谷田家文書)

泊村
とまりむら

[現在地名]檜山郡江差町字泊町・字大澗町おおまちよう

近世から明治初年まで存続した村。片原かたはら町・オコナイ村の北に位置し、東はもと山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。応永年間(一三九四―一四二八)に流賊が割拠したとの伝承がある(「夏原律太郎戸長記録」夏原家文書)。「新羅之記録」には上ノ国泊館主として蠣崎太郎基広の名が記されている。「福山秘府」によると、基広は永正六年(一五〇九)に蠣崎光広(松前氏二世)の次男高広の子として誕生。大永元年(一五二一)に泊館主高広の没後、同館主となった。基広は松前氏四世季広を呪い殺そうとし、季広が帰依している法師賢蔵坊に祈祷させたが成就しなかった。天文一七年(一五四八)三月、季広が大館おおだて(現松前町)から上ノ国に赴いた際同道した賢蔵坊が、季広に謝して、基広に頼まれて討とうとしたことを告げた。季広は長門藤六を遣わして、基広をだまし討ちしたという。泊館の所在地などは未詳。

寛永一〇年(一六三三)七月に西海岸を訪れた幕府巡見使一行は、同月一〇日に松前を出発しヱラ町(現松前町)火石ひいし(比石)・上ノ国に止宿、その後ヲトベ(乙部)瀬茂内せもない(現乙部町)まで船で巡見したが、「ソレヨリ上ヱ馬足不叶」引返して泊に止宿している(松前年々記)

泊村
とまりむら

[現在地名]坊津町泊

ぼう村の北に位置し、南西に泊浦の湊(泊港)が開ける。村内は東の台地上にある農業地帯の清原きよはら地区と漁業を主とする泊浜とまりはまに分れる。東の鹿籠かご郷鹿籠村(現枕崎市)境から清原を経て川床かわとこ(現泊川)が流れ、湊の北側に注ぐ。鹿籠村から北の久志秋目くしあきめ郷久志村へ通ずる往還道が海岸を走り、清原を経て加世田郷津貫つぬき(現加世田市)へ抜ける往還道が河口付近で分岐する。湊は久志村丸木まるき(現丸木浜)の東岸から南西に突出する丸木崎(今代鼻)と泊浦南岸の西にしによって囲まれ、河口南方にみや崎、さらに南に荒床あらとこ(現荒所)がある。湊の海は浅く、大船をつなぐのは不便であった(以上「三国名勝図会」など)。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、「大とまりの津」などが時家の三男熊夜叉丸に譲られている。

泊村
とまりむら

[現在地名]前原市泊

油比ゆび村の東、丘陵部南端に位置し、東は元岡もとおか(現福岡市西区)板持いたもち村。一六世紀前半に明で編纂された「図書編」日本国序にみえる「多売利」は当地に比定される。永禄一二年(一五六九)九月五日、当地の領主泊中務少輔は志摩しま郡衆として博多表で毛利軍と戦っている(九月二六日「大友宗麟感状」浜地文書/大分先哲叢書「大友宗麟」四)。元亀三年(一五七二)と推定される五月二八日の大友宗麟書状(同上)によると、柑子岳こうじたけ(現西区)に勤番する郡衆中の一人に泊又五郎がいる。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田八八町三段余・畠二一町四段余、ほかに田四段。小早川時代の指出前之帳では田八九町九反余(分米一千二三六石余)・畠三二町一反余(分大豆七七石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高一千三一四石余、物成六六八石余(うち大豆一一五石余)

泊村
とまりむら

[現在地名]氷見市泊

東は富山湾に面し、北は宇波うなみ村、南は小杉こすぎ村。丘陵山地が海近くまで迫り、小杉村境近くや小谷内を開いて小規模な水田がつくられている。海沿いに浜往来(海浜道)が通り、垣内は南の瀬間田せまだと、北のくじ谷内やちの二つに分れる。近世初頭に小杉村より分れて一村立てしたといい、当時の草高一七七石(貞享五年「郷帳表」加賀藩農政史考)、文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)に「高百九拾四俵壱斗弐升五合 宇波組 とまり村 同御山銭壱貫百文」とある。正保郷帳では高一五七石余、田方一町五反・畑方九町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一七二石・免五ツ、小物成は山役七六匁・蝋役一匁、網役五七匁四分(ほか五二六匁六分退転)、猟船櫂役四五匁(ほか五〇匁退転)、釣役二三匁退転(三箇国高物成帳)

泊村
とまりむら

[現在地名]六ヶ所村泊

下北半島基部の金津かねづ(五二〇・二メートル)の東、太平洋沿岸の中山なかやま崎の南に位置する。南は出戸でと村、北は白糠しらぬか(現下北郡東通村)に接する。雑書の寛永二一年(一六四四)四月二六日・一〇月四日の条によれば南部藩は領内の浦に浦番を命じ、きた郡八ヵ所の浦の一つに「東浦之内泊」があり、同一〇月には杉沢長兵衛が遣わされるなど、泊湊は重要な湊の一つであった。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図には泊村、無処務とあって、無年貢地であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では蔵分一六石余と荒地の郡分郷村高書上二〇・一石余があった。馬二〇疋を飼養し、家数五七。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六四とある。藩政期末の「北奥路程記」には北の村境辺りの明神みようじん川の南に二ヵ所、集落の北の中山崎と山の上の計四ヵ所にそれぞれ大砲場がある。

泊村
とまりむら

面積:五三八・五六平方キロ(境界未定)

大正一二年(一九二三)国後くなしり郡泊村・秩苅別ちぷかりべつ村・米戸賀べつとが村・東沸とうふつ村の四村が合併し、二級町村泊村が成立。国後島の南半分を占め、西はオホーツク海、東は太平洋に面し、西から南は根室海峡を隔てて北海道の知床しれとこ半島・野付のつけ半島・根室半島を望む。国後島北部の留夜別るよべつ村との境は、太平洋岸のキナカイ川河口とオホーツク海側のニキシロを結ぶ線である。中央部に東沸湖があり、周辺に低地が広がっている。南部には泊山(五四三メートル)、北部には羅臼らうす(八八八メートル)、同山の北部に菱内ひしない湖がある。千島火山帯に属し、古丹消こたんけし温泉・瀬石せせき温泉などがある。昭和二〇年(一九四五)ソビエト連邦に占領される以前には海岸沿いに道路が走り、集落が点々と形成されていた。

泊村
とまりむら

面積:八二・二八平方キロ

明治四二年(一九〇九)四月、泊村・さかずき村・興志内おきしない村・堀株ほりかつぷ村・茅沼かやぬま村が合併して成立、二級町村制を施行。積丹しやこたん半島の西部に位置し、西に日本海が広がる。北は古宇ふるう神恵内かもえない村、東は古平ふるぴら郡古平町、南は岩内いわない共和きようわ町に接する。東部の滝ノ沢たきのさわ(七一四メートル)熊追くまおい(八〇五・四メートル)岩平いわぴら(標高七九四・七メートル)などが積丹半島の尾根を形成し、また町境ともなっており、町域の中央部には天狗てんぐ(六八八・七メートル)などがそびえる。海岸部に近くまる山・かぶと山などの山嶺が迫り、急傾斜の地勢をみせている。

泊村
とまりそん

面積:一四・五三平方キロ

東伯郡の最東端に位置し、東は気高けたか青谷あおや町、西は羽合はわい町、南は東郷とうごう町で北は日本海に面する。山林原野が村域の約七割を占め、丘陵が海岸近くまで迫る。村域内を東から石脇いしわき川・その川・はら川・宇谷うたに川が北流し、その流域には小さな平坦地が開ける。海岸沿いをJR山陰本線と国道九号が並行して通り、日本海に突き出た甲亀こうき山の西側には泊漁港がある。

縄文・弥生時代の遺跡が数ヵ所に分布するが、なかでも昭和八年(一九三三)小浜こばまの開墾中に発見された銅鐸が注目される。石脇には古墳群がある。古代には「和名抄」記載の河村かわむら笏賀くつか郷の地に比定され、同郷には「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる笏賀駅が設置されていたと推定され、因幡国柏尾駅(現青谷町)と伯耆国松原まつばら(現倉吉市)の間にあり、駅馬五疋が置かれていた。

泊村
とまりむら

[現在地名]伊根町字泊

新井にい村の北に位置し、東は海に面する。村内にある七社しちしや明神(現七神社)の文明一四年(一四八二)棟札に「小泊村」「泊」とみえるのが早い。近世は「泊」、明治初年から二二年(一八八九)までは「泊り」、以降は「泊」と記す。慶長検地郷村帳に高五七・六三石とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で九四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領として推移したが、寛文六―九年(一六六六―六九)、延宝八―九年、享保二年―宝暦九年(一七一七―五九)は幕府領であった。

泊村
とまりむら

[現在地名]古宇ふるう郡泊村大字泊村

明治初年(同二年八月―同六年の間)から同四二年(一九〇九)まで存続した古宇郡内の村。北部に糸泊いととまり照岸てるぎしがあり、南部ではまる(二〇八・七メートル)の北麓をモヘル川が西流する。明治四年の「春日紀行」に泊とある。同六年の「後志国地誌提要」に「泊リ村」とみえ、戸数八二、人口二九九(うち僧三)、寄留戸数四、人口一八九(平民一八二のうち男一一七)。稲生社(稲荷社か、天保八年創建という)が祀られる。明治一二年の「共武政表」に戸数九〇・人口四二六、馬五五、日本形船舶一六七、物産は鰊・鱒・鮭・鱈・昆布とある。

泊村
とまりむら

[現在地名]吉海町泊

大島の北西部にある。東は念仏ねんぶつ山で宮窪みやのくぼ(現宮窪町)に接し、西は荒戸鼻あらとのはなから二番所に至る長い海岸線で津倉つくら湾に面する。北の田浦たのうら村、南の福田ふくだ村との境は、ともに険しい山地である。中央部に江口港、北部に泊港をもち、斉明天皇漂着の伝説がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「泊り村 日損所、野山有、林有」とみえ、村高は一〇二石五斗六升五合とある。

泊村
とまりむら

明治初年から明治三九年(一九〇六)まで存続した檜山郡の村。江差町の北部に位置し、西は日本海に面する。明治初年それまでの泊村にオコナイ村・尾山おやま村・五厘沢ごりんざわ村の三村が合併して成立。戸長役場は小字地蔵町じぞうちように置かれた(夏原家文書)。明治六年の「渡島国地誌提要」では戸数は士族二・寺一・平民一三〇、人数は士族男四・女一、平民男三〇二・女三〇六、僧一、ほかに寄留人六、反別畑二一町余。

泊村
とまりむら

[現在地名]国後くなしり郡泊村大字泊村

明治初年から大正一二年(一九二三)までの村。国後島の南東部に位置し、東は太平洋に面する。南東端にケラムイ岬・泊港がある。明治二年(一八六九)国後郡が設置されたあと、同六年までにトマリ、ケラムイ、ノテトなどを包含してトマリ村が成立。「千島国地誌提要」に村名がみえ、戸数士族一・アイヌ三、人数はアイヌ男五・女五、寄留戸数平民三、男二〇二・女三九。

泊村
とまりむら

[現在地名]野津町泊 泊

岩崎いわさき村の東、垣河内かきがわち川北岸にあり、北の風連ふうれん洞窟の谷から流出する風連川がほぼ南へ貫流し、垣河内川に注ぐ。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には泊り村が田代たしろ村など七ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では川登かわのぼり村のうちに含まれる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば北方風連川流域の白谷しらたに共の本高七四石余・出来高一二石余、田方五六石余・畑方二九石余。

泊村
とまりむら

[現在地名]津奈木町岩城いわき

津奈木湾沿いの漁村で、東ははま村、北は赤崎あかさき村に接する。リアス海岸のため平地はなく、小湾ごとにとまり大泊おおど仮泊かつどなどの集落が点在する。寛永一八年(一六四一)の津奈木村小村切高物成人畜御帳(徳富文書)に「津奈木村内水夫村」として村名がみえ、高四石四斗余、畠数五反二畝余、女三・男四、うちろ手取(水夫)三、船数二(三枚帆より下)が記される。正保三年(一六四六)の津奈木内小村切人畜改御帳(同文書)には女一・男五、うち水夫三、船数二(草きり船)がみえる。

泊村
とまりむら

[現在地名]四日市市泊町・追分おいわけ二―三丁目・日永西ひながにし四―五丁目・泊山崎とまりやまざき町・前田まえだ町・泊村

日永ひなが村の西南、東海道に面して民家が並ぶ。東は日永村のうち追分。追分で東海道と伊勢参宮街道が分岐するが、追分の西、東海道に沿って泊村の飛地がある。「三国地志」は、「泊旧名岡本、追分泊支郷」とするが典拠は不明。江戸時代は和歌山藩領。天保一四年(一八四三)以降の作成と考えられる東海道宿村大概帳(逓信博物館蔵)には「此村往還通長五町四拾弐間之内多分家居ニ、其余は並木也。

泊村
とうまいむら

[現在地名]中城村とまり

伊舎堂いしやどー村の北、中城なかぐすくグスクの南東麓にある。東は中城なかぐすく湾に面する。トゥマイとよばれる。絵図郷村帳に泊村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭五九石余で、うち田四一石余・畠一八石余。中城湾岸にはとうまい湊があり、村名はこの湊(泊)からきているという。脇地頭は確認できず、「琉球藩雑記」にも記載されない。村内に泊・添石しーし両村管轄の中城城内之殿がある。御殿石階に設けられ、ヨキヤノロが祭祀を管轄した。麦穂祭には両村が神酒をそれぞれ供え、稲二祭には中城御殿(世子)と惣地頭がそれぞれ花米・五水・神酒・シロマシ、添石地頭が花米・五水・神酒、添石・泊両村百姓中がそれぞれ神酒を供えた。

泊村
とまりむら

[現在地名]島牧郡島牧村字泊・字永豊ながとよ・字豊平とよひら

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同一二年(一八七九)まで存続した村。泊川の河口部にあり、近世はシマコマキ場所の運上家が置かれた。明治六年の「後志国地誌提要」に泊村とみえ、戸数二・人口九、寄留戸数三八・人口五五で、厳島神社(享和三年修造)が祀られる。明治五年の中遣船一・三半船六・保津船六・磯船一〇(島牧郡船調書上)、同九年の漁家数一、建網二投、漁夫九六(以上「島牧村史」)

泊村
とまりむら

明治三九年(一九〇六)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した檜山郡の村。明治三九年に檜山郡泊村・田沢たざわ村・伏木戸ふしきど村・柳崎やなぎざき村・鰔川うぐいかわ村・小黒部おぐろつぺ村が合併、二級町村制を施行して成立。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泊村」の意味・わかりやすい解説

泊〔村〕
とまり

北海道西部,日本海に面する村。積丹半島の基部西側に位置する。地名はアイヌ語のヘモイトマリ (サケが湾に入る港の意) に由来。スケトウダラ,イカなどの沿岸漁業が主産業。 1989年に北海道初の原子力発電所である泊発電所が営業運転を開始,北海道の電力の約3割を供給する。茂岩地区に盃温泉があり,ニセコ積丹小樽海岸国定公園に属する。海岸部を国道 229号線が通る。面積 82.27km2。人口 1569(2020)。

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