波多野氏(読み)はたのうじ

改訂新版 世界大百科事典 「波多野氏」の意味・わかりやすい解説

波多野氏 (はたのうじ)

中世の武将,丹波の土豪。古くは越前の土豪で,道元の檀越となった波多野義重が知られる。一族は鎌倉後期六波羅探題の在京御家人,次いで室町幕府評定衆となった。丹波の波多野氏はもと石見土豪吉見(よしみ)氏の一族で,吉見清秀は細川勝元に仕え,母方の姓を継いで波多野と称し,応仁の乱の軍功で抜擢され,細川氏の分国丹波多紀郡小守護代に就任,八上城主となってしだいに自立化の道を歩んだ。清秀の裔である稙通(秀忠)は1526年(大永6)細川高国に背いて晴元に通じ,40年(天文9)三好長慶に女を嫁がせ,長慶の岳父となった。天文末年に丹波守護代内藤国貞が八木城に敗死すると,秀忠の子晴通は三好氏と別れて多紀郡で自立,戦国大名化をはかるが,氷上郡の黒井氏,口丹波の松永氏にはさまれてその発展を阻まれた。織田信長が畿内制覇に乗り出すと晴通の子秀治は激しく抵抗し,織田の将,明智光秀をしばしば苦しめたが1579年(天正7)光秀に降り,安土城下で磔殺され,波多野氏は滅亡した。
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世界大百科事典(旧版)内の波多野氏の言及

【丹波国】より

…しかし守護細川政元に実子がなかったことから猶子澄之と澄元の間に内紛が生じ,内衆も両派に分かれて争い,1506年(永正3)澄之の守護就任を機に領国は解体状況に陥った。以後細川氏有力内衆のうち守護代内藤氏と多紀郡代波多野氏がそれぞれ八木・八上両城を地盤に割拠し,国人では黒井城(現,兵庫県氷上郡春日町)に荻野氏が拠った。守護代内藤貞正・国貞の父子は細川氏に再三背いて反復つねなく,やがて口丹波(桑田郡,船井郡)に覇を唱え戦国大名化した。…

【波多野秀治】より

…戦国末期の武将。波多野氏は,細川京兆家に仕え,応仁・文明の乱(1467‐77)のころより丹波に入部し,多紀郡八上城を本拠に勢をはった。秀治は宗家元秀を継ぎ左衛門大夫と称した。…

※「波多野氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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