津和野(読み)ツワノ

デジタル大辞泉 「津和野」の意味・読み・例文・類語

つわの【津和野】

島根県西端、鹿足かのあし郡の地名。もと亀井氏の城下町で、津和野川に沿って堀や屋敷が残り、森鴎外西周にしあまねの旧宅、津和野城跡がある。石州半紙の産地。

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精選版 日本国語大辞典 「津和野」の意味・読み・例文・類語

つわの【津和野】

島根県南西端の地名。鎌倉時代吉見頼行の築城以来発展し、江戸時代には亀井氏四万三千石の城下町。石見(いわみ)半紙などを生産。森鴎外、西周(にしあまね)出身地

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改訂新版 世界大百科事典 「津和野」の意味・わかりやすい解説

津和野[町] (つわの)

島根県西端,鹿足(かのあし)郡の町。2005年9月旧津和野町と日原(にちはら)町が合体して成立した。人口8427(2010)。

津和野町西部の旧町。鹿足郡所属。〈山陰の小京都〉と呼ばれる旧城下町で,JR山口線が通じる。人口6098(2000)。13世紀末の吉見氏以来,吉見氏14代,坂崎氏1代を経て,1617年(元和3)亀井氏が入府し,この後亀井氏12代の城下町となった。亀井氏2代藩主茲政(これまさ)による殖産で,石見(いわみ)半紙(石州半紙)を特産とする紙業が栄えた。また東方にある青野山東麓の沼原(のんばら)(沼地であった)の開拓により水田が開かれた。現在も石見地方南西部の農山村地域の中心として木材,和紙などの集散地となり,沼原のサトイモ,津和野川のコイ,マスなどが知られる。酪農も進んでいる。側溝の清流にコイが泳ぐ中心街の殿町をはじめ,景勝地や史跡が多い。津和野城(三本松城)跡(史),津和野出身の文豪森鷗外の旧居(史),啓蒙思想家西周(あまね)の旧居などがその代表である。町の中心付近には日本五大稲荷の一つ太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社があり,開運・産業の神として西日本各地の信仰を集めている。津和野駅北方の乙女峠にあるマリア聖堂は,1868年(明治1)から73年まで明治新政府によって配流・迫害された長崎浦上のキリシタンを記念して建てられたものである。また京都八坂神社を勧請(かんじよう)した弥栄(やさか)神社(祇園社)には鷺舞が伝わり,7月20日と27日の例祭に奉納される。
執筆者:

石見国南西端の津和野盆地の中心に位置する城下町。13世紀末に吉見頼行が津和野に入り三本松城を築き,14代300余年石見西部を支配したが,関ヶ原の戦後長州に移った。1601年(慶長6)坂崎直盛(出羽守)が津和野に封じられ津和野藩が成立した。坂崎は三本松城に大改修を加え,防塁的山城とし,また城下町の経営にもあたった。02年の検地帳によると,津和野川の橋北地区に城主の居館,家中屋敷があり,橋南は侍屋敷,町屋敷が混在している。城下の本格的な町割りが行われるのは亀井時代の寛文~元禄期(1661-1704)といわれ,鷲原,中座,町田,森,後田(うしろだ)に城下町を形成した。鷲原地区には百姓,町屋,侍町,足軽町,中間町があり,中座にも足軽町が散見する。町田地区は商人,職人,百姓の寄合地域であり,森地区の中ノ島,堀内は重臣層の居住地で,そのほか中間町,足軽町があった。後田地区は町人の町となり,津和野の経済的中心地であった。1805年(文化2)の記録では家中上下5464人,町方2540人で,武士階級が圧倒的に多いのが特色である。藩校養老館は最初堀内に設けられたが,のち殿町へ移った。津和野藩は1871年5月率先版籍を奉還し浜田県へ編入され,政治の中心は浜田へ移ったが,養老館はなお石見の文教の中心として残った。
執筆者:

津和野町東部の旧町。鹿足郡所属。人口4530(2000)。高津川の中流域にある中国山地の山間の町で,高津川と津和野川の合流点に中心集落の日原がある。近世は銀,銅を産出する鉱山集落として栄え,幕府の大森代官所が支配した。総面積の大部分が山林で,良材を産し,シイタケワサビの生産が盛んである。古くから養蚕や和紙製造が行われ,中国地方に唯一残る製糸工場がある(2001年閉鎖)。6000点の民具を集めた歴史民俗資料館や日原天文台がある。JR山口線,国道9号,187号線が通じる。
執筆者:

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日本歴史地名大系 「津和野」の解説

津和野
つわの

現津和野町の津和野川の下流に開けた盆地一帯に比定される。中世吉賀よしか野々のの郷のうち。文明二年(一四七〇)八月六日の弘中武長書状(益田家文書)に、「文明初比、道頓法師自津和野至賀禰城」とみえる。しかしこれ以前から吉見氏が一本松いつぽんまつ(三本松城)を築いてこの地を拠点としていた。室町期には野々郷上領かみりよう・下領に分れ、当地は下領に属したようである。応永年間(一三九四―一四二八)の後半には「野下領」は吉賀郷とともに室町幕府の御台(将軍足利義持の室日野栄子)の料所とされ、能登の吉見家貞がこれらの地の代官下代職を又香氏(俣賀氏)に預けている(年未詳六月八日「吉見家貞書状」俣賀文書)

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