津守氏(読み)つもりうじ

改訂新版 世界大百科事典 「津守氏」の意味・わかりやすい解説

津守氏 (つもりうじ)

摂津国西成郡津守郷を本拠とした古代の氏族の一つ。大和平野への入口にあたる淀川河口付近は早くから交通の要衝として開けており,津守氏は津を守護する職務をもって大和政権に仕えた。氏族名もその職務に由来する。平安時代,古代氏族を出身別に分類した《新撰姓氏録》は,〈津守宿禰 尾張宿禰同祖 火明命八世孫 大御日足尼之後也〉と記す。《日本書紀》や《古事記》は,神功皇后紀(記)に津守連の祖を田裳見宿禰とする。仁徳紀は,秦人らを役して墨江之津を定めるとあり,津守氏の起源を類推する材料ではあるが確実ではない。〈六国史〉には,津守の一族が百済や高句麗,唐に派遣され,住吉郡郡司に任じられている記事を見ることができ,これは交通の要路をおさえ,住吉神社と深いかかわりをもつ津守氏の職務に由来するものであろう。《住吉系図》には津守氏が代々住吉神社の神主を務めたことを記し,近代,官幣大社となるに及んで華族に列した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「津守氏」の意味・わかりやすい解説

津守氏
つもりうじ

港津の警護を専任とする摂津(せっつ)の名族。田裳見宿禰(たもみのすくね)(『日本書紀』神功摂政(じんぐうせっしょう)条)を始祖とすると伝える。摂津住吉(すみよし)神社(大阪市住吉区)に奉仕するかたわら、海部(あまべ)を率いて航海術を掌握した。津守氏とみえるのは津守宿禰国磨(くにまろ)のときからで、遣唐使の一員として渡海した。住吉系図・住吉神主并(ならびに)一族系図によれば、11世紀後半に活躍した国基(くにもと)は、津守氏中興の祖といわれ、国夏(くにか)、国久(くにひさ)らは、南北朝内乱期に南軍の将として史書にみえる。歴代の多くは歌道に優れていたという。庶流は山城(やましろ)、和泉(いずみ)、讃岐(さぬき)、豊前(ぶぜん)などに及び、おのおの水上交易の要衝に蟠踞(ばんきょ)して繁栄した。

[佐藤和彦]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「津守氏」の意味・わかりやすい解説

津守氏
つもりうじ

摂津の名族。ホアカリノミコトの子孫という。摂津住吉社の神職南北朝時代には南朝方歌人音楽名手が多く出た。明治になって男爵

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世界大百科事典(旧版)内の津守氏の言及

【住吉行宮】より

…59年(正平14∥延文4)から60年にかけて幕府軍は河内に大攻勢をかけたものの長続きせず,一方南朝内部でも赤松宮(あかまつのみや)(護良(もりよし)親王の子興良(おきよし)親王)が賀名生を攻めるなどの事件がおき,60年9月,後村上天皇は再び住吉行宮に移った。住吉大社の神主津守氏に頼ることが当時の南朝にとってもっとも安全であったものと思われ,また幕府もこの段階では摂津住吉郡に支配を及ぼすことはできなかった。68年(正平23∥応安1)3月11日,後村上天皇は住吉行宮で死没,ついで践祚した長慶天皇も当初住吉行宮にいたが,同年12月24日吉野行宮に移った。…

※「津守氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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