津川城(読み)つがわじょう

日本の城がわかる事典 「津川城」の解説

つがわじょう【津川城】

新潟県東蒲原郡阿賀町にあった平山城(ひらやまじろ)。中世の武将金上氏の居城阿賀野川支流の常浪川の合流点にある麒麟山の西端に築かれた城郭である。麒麟山は標高200mたらずだが断崖絶壁の険しい山で、同城は阿賀野川、常浪川の流れと断崖に守られた堅固な城だった。また、石垣が多用されるなど、新潟県(越後)の中世城郭には見られない特徴を持つ。同城は鎌倉時代に佐原氏(のちの蘆名氏)一族の藤倉盛弘(金上盛弘)が築いたとされる。津川古来、越後と会津を結ぶ交通の要衝で、とくに水運の中継地として重視されたところである。戦国時代には、黒川城(のちの若松城、福島県会津若松市)を居城としていた蘆名氏が越後を含む隣国への勢力拡張の拠点として活用した。このため、津川城を舞台に上杉氏と蘆名氏が何度も争いを繰り返した。上杉謙信は津川口からの蘆名氏の侵攻に備えて神戸城や雷城を築いたが、1564年(永禄7)、津川城から侵攻した蘆名勢により、一時占領されたことがある。1578年(天正6)には、謙信の後継をめぐって御館の乱が起こったが、このとき、津川城主の金上盛備は蘆名盛氏の命令により、上杉景虎方として越後国蒲原郡に侵攻した。また、1581年(天正9)の新発田重家の乱では、蘆名盛隆は赤谷城(新発田市)を築いて、新発田重家を支援した。上杉景勝は蘆名氏の援助を遮断するため赤谷城を攻撃。津川城主の盛備は援軍として赤谷城に向かったが敗北して赤谷城は落城した。続いて、新発田重家の本城の新発田城も落城して、乱は鎮圧された。その後、盛備は蘆名氏と伊達政宗(だてまさむね)との間で行われた摺上原の戦いで戦死し、蘆名氏も滅亡した。1590年(天正18)、会津に蒲生氏郷(がもううじさと)が入封すると、津川城も氏郷の属城となり、氏郷家臣の北川平左衛門が入城した。その後、1598 年(慶長3)の上杉景勝の会津移封後、景勝家臣の藤田信吉が城主となった。信吉は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの直前に景勝と敵対していた徳川家康に通じて出奔したため、代わって鮎川帯刀が城主となっている。江戸時代に入り、蒲生秀行が会津藩主として入封すると岡重政が津川城主となったが後に改易となり、1627年(寛永4)に加藤嘉明が会津に国替えになった際に、津川城は幕府の命令により廃城となった。城跡は現在、麒麟山公園として整備もされており、風光明媚なことからハイキングコースとしても知られる。同公園内には、曲輪(くるわ)、土塁、堀切、竪堀、石垣、井戸などの津川城の遺構が残っている。JR磐越西線津川駅から徒歩約30分。◇狐戻城、麒麟山城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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