浅原健三(読み)あさはらけんぞう

改訂新版 世界大百科事典 「浅原健三」の意味・わかりやすい解説

浅原健三 (あさはらけんぞう)
生没年:1897-1967(明治30-昭和42)

労働運動家,政治家。福岡県生れ。父が小炭鉱経営に失敗,少年時代坑夫生活などで苦労をなめ,17歳のとき上京して日本大学法科に入学し,アナルコ・サンディカリスムの影響をうけた。1919年八幡で製鉄所職工を日本労友会に組織し,翌年溶鉱炉の火は消えたり〉で有名な大ストライキを指導,検挙され,出獄後北九州労働運動の有力な指導者となった。25年地方無産政党,九州民憲党結成,28年第1回普選で代議士当選,30年にも日本大衆党から出て当選した。しかし,32年には全国労農大衆党から立候補して落選。36年ころ,〈転向〉して石原莞爾接近,軍に協力して満州国協和会の活動に参加,林銑十郎内閣成立の際は石原,十河信二らと組閣参謀をつとめたが,その後東条英機により排除された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅原健三」の意味・わかりやすい解説

浅原健三
あさはらけんぞう
(1897―1967)

労働運動家。福岡県生まれ。苦学して日本大学専門部に通ううちに政友会院外団に関係し、またサンジカリズム共鳴。1919年(大正8)福岡県八幡(やはた)で日本労友会を結成して、翌年八幡製鉄所の争議を指導、「熔礦炉(ようこうろ)の火は消えたり」の言葉で有名になる。北九州の労働運動を指導して1925年九州民憲党を組織し、1928年(昭和3)と1930年の2回衆議院議員に当選した。その後、無産運動から離れ、石原莞爾(かんじ)ら陸軍の「満州グループ」と親交を深め、満州協和会東京事務所にあって政界工作に従事。1938年憲兵隊に逮捕されるが翌1939年釈放され、第二次世界大戦末期には東条内閣反対運動を行った。戦後は1951年(昭和26)西日本建設連盟を主宰した。

[赤澤史朗]

『大谷敬二郎著『昭和憲兵史』(1966・みすず書房)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅原健三」の解説

浅原健三 あさはら-けんぞう

1897-1967 大正-昭和時代の労働運動家,政治家。
明治30年2月28日生まれ。大正8年八幡(やはた)製鉄所で日本労友会をつくり,翌年同製鉄所の大争議を指導。九州民憲党を結成し,昭和3年衆議院議員(当選2回)となる。のち無産運動からはなれた。昭和42年7月19日死去。70歳。福岡県出身。日大中退。著作に「鎔鉱炉の火は消えたり」。

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世界大百科事典(旧版)内の浅原健三の言及

【八幡製鉄所争議】より

川崎・三菱神戸造船所争議に次ぎ,第2次大戦前の日本で2番目に大規模な争議であった。第1次大戦期の物価上昇のもとで,製鉄所では1918年夏から賃上げを要求する動きがあったが,19年に浅原健三(1897‐1967)が中心となって日本労友会を結成,翌20年友愛会八幡支部とともに賃上げ,労働時間短縮などを要求して2波のストライキに入った。製鉄所側は要求をすべて拒絶してロックアウトを実施,弾圧と労働者内部の離間工作をもって対応し,結局労働者側が〈敗北宣言〉を出して終結した。…

※「浅原健三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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