海老名市(読み)エビナシ

デジタル大辞泉 「海老名市」の意味・読み・例文・類語

えびな‐し【海老名市】

海老名

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日本歴史地名大系 「海老名市」の解説

海老名市
えびなし

面積:二五・二〇平方キロ

県のほぼ中央に位置しており、東は大和・綾瀬あやせ・藤沢の三市、南は高座こうざ寒川さむかわ町、北は座間ざま市と接し、西は相模川を隔てて厚木市と対する。市域の東半部は相模野台地西端の高台で、その北部を目久尻めくじり川が流れ畑が多く、西半部は相模川東岸の沖積低地で水田が開けている。「風土記稿」には、海老名の地名は、前九年の役の康平五年(一〇六二)に源頼義の属将に海老名氏の名があることから、おそらくはその頃この地に住んで所の名を称したものであろうとある。

〔原始〕

先土器時代の遺跡は目久尻川に面した台地の先端部にあり、産川さんがわ遺跡が西岸、中村なかむら遺跡が東岸に発見されている。ともに立川ローム層の第二暗色帯の上面に礫群、その直下に黒曜石片が包含されていた。また上浜田かみはまだ遺跡では先土器時代終末期の有舌尖頭器・片刃打製石斧が出土し、縄文早期から後期に至る土器片が出土している。縄文中期は勝坂期の竪穴住居跡一戸が発見された上今泉かみいまいずみ遺跡、顔面把手の発見された大谷おおや遺跡、中期初頭から後葉にわたる産川遺跡が、それぞれ台地上に営まれている。本郷ほんごう遺跡からは、考古学上の発掘では出土例の稀有な小銅鐸が弥生末期の竪穴住居跡から発見され、また玉造の工房跡が見付かっている。また同遺跡では、方形周溝墓約四〇基が、同時代の住居跡群と溝を隔てて並んでいる。

古墳時代には、前方後円墳二基、円墳一基、前方後方墳一基の秋葉山あきばやま古墳群があり、国分こくぶにある前方後円墳の瓢箪塚ひようたんづか古墳とともに五世紀から六世紀にかけての相模川流域を支配していた豪族の存在が推定され、この地域に相模国分寺が成立する背景がうかがわれる。また古墳時代終末期の横穴古墳は杉久保土合すぎくぼどあい横穴群で三四穴、衛生センターわき横穴群で五穴発見され、七世紀のものと推定される。本郷遺跡の奈良―平安時代の住居跡群からは、官人の用いた青銅製の袴帯や石帯が出土し、上浜田遺跡からは同時期の掘立柱建物跡一六、竪穴住居跡一一六が発掘され、相模国分寺、相模国一宮の寒川神社(現高座郡寒川町)、古代東海道の浜田駅と関連して古代相模国の要所であったと思われる。

〔古代〕

大化改新以後に設けられた相模国の国府は、原則的に国府の近くに国分寺・国分尼寺があるべきとの考えから、海老名の国分こくぶに置かれたとする説が「風土記稿」以後有力であった。ただ現小田原市千代ちよの千代廃寺付近を国府とする説もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海老名市」の意味・わかりやすい解説

海老名〔市〕
えびな

神奈川県中部,相模川中流東岸にある市。東半は相模原台地,西半は相模平野が占める。 1955年有馬村と海老名町が合体し,71年市制。地名は大きなエビが生息していた土地の意に由来するといわれる。早くから開かれた地で,台地末端には相模国の最初の国府がおかれたといわれている。付近には国分寺の南北 1kmにわたる礎石が残り,相模国国分寺跡として史跡に指定されている。条里制の遺構もみられる。施設栽培が行われる。 JR相模線,相模鉄道小田急電鉄小田原線が通り,東京,横浜の衛星都市として住宅,工場の建設が盛ん。特に海老名駅周辺は急激に発展している。面積 26.59km2。人口 13万6516(2020)。

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