淀屋个庵(読み)よどや・こあん

朝日日本歴史人物事典 「淀屋个庵」の解説

淀屋个庵

没年:寛永20(1643)
生年天正4(1576)
江戸前期大坂豪商。姓は岡本,名は言当,号は玄个庵,个庵は玄个庵の略称という。言当とその後継者は代々,三郎右衛門を名乗り,号は个庵,通称は辰五郎であったといわれている。父の淀屋常安が元和5(1619)年,中之島の「常安請地」開拓を竣工させ,ここに居住して常安町家を開いたことにより,言当はそれまでの十三人町(現在の大阪市中央区北浜4丁目)淀屋橋家の当主となった。同8年鳥羽屋彦七と共に,塩魚商人の代表者として津村の葭島の開発を出願,大坂町奉行の認可を得て新地を造成し,塩干魚,干鰯商の集居する新靭町,新天満町,海部堀川町発展の基を築いた。また寛永8(1631)年,従来は堺,京都,長崎に限られていた糸割符特権が江戸にも与えられることになったので,言当は北組惣年寄の川崎屋治左衛門と共に,それが大坂にも配分されるよう長崎奉行に依頼し,翌年幕府へも出願して,実現させた。言当の大名貸については,寛永18年萩藩への銀150貫目貸付がこれまで発見された史料に裏付けられた唯一の事例である。幕府直轄商業都市としての大坂の発展に貢献した豪商であったことは間違いないが,その事跡の多く伝説の域にあって明らかではない。風流を解し,茶事を嗜み,小堀遠州,松花堂昭乗親交があり,連歌をよくし,戯画に長じて人物花鳥雑画を描いたという。<参考文献>横山三郎「淀屋史料の現段階」(『船場』3号),森泰博「淀屋と萩藩」(宮本又次編『上方の研究』1巻)

(森泰博)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「淀屋个庵」の意味・わかりやすい解説

淀屋个庵 (よどやこあん)
生没年:1577-1643(天正5-寛永20)

江戸前期の大坂の豪商。姓は岡本氏,名は三郎右衛門言当。淀屋の始祖で中之島の開拓で知られる与三郎常安の長子で,个庵もまた1622年(元和8)鳥羽屋彦七と連名で津村の葭島の新地開発を出願し,塩干魚・干鰯(ほしか)(魚肥)商の集居する靱(うつぼ)3町(新靱,新天満,海部堀川町)の発展の素地をつくった。また大坂の総年寄として31年(寛永8)従来,堺,京都,長崎に限定されていた糸割符(中国産生糸の輸入商グループ)の特権を大坂町人のために奔走して実現させた。さらに町人蔵元として諸藩の大坂廻米の販売を大規模に引き受け,そのため北浜の淀屋の店頭には米商人が群集して米市が立つようになったという。のちの堂島米市場の濫觴(らんしよう)とされる。そして幕府,諸侯への貸金は巨額にのぼった。一面風雅を好み,茶人として小堀遠州,松花堂昭乗らと親交があり,連歌をよくし人物花鳥画を描いたという。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「淀屋个庵」の解説

淀屋个庵 よどや-こあん

1577-1644* 江戸時代前期の豪商。
天正(てんしょう)5年生まれ。淀屋常安の長男。大坂の中之島の開発で知られる淀屋の2代目。靱(うつぼ)の地を開拓し,米市をひらく。寛永8年大坂に糸割符(いとわっぷ)の配分権を獲得した。茶人として小堀遠州(えんしゅう),松花堂昭乗らとまじわった。寛永20年12月5日死去。67歳。姓は岡本。名は言当。通称は三郎右衛門。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の淀屋个庵の言及

【商人】より

…軍需物資の調達・輸送,金融,城下町整備などで活躍し,ときには代官的な役割を果たした。大堰川,富士川,高瀬川などを開削して米や物資の輸送を可能にし,通船料取得の特権をえた角倉了以や,大坂の道頓堀川を開削して水上交通と市街の発達に寄与した安井道頓,中之島を開発して市場を開いた淀屋个庵(こあん)などが著名である。彼らは幕藩権力と結びつき,政商的性格をもっていた。…

※「淀屋个庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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