淄博(読み)シハク(英語表記)Zī bó

デジタル大辞泉 「淄博」の意味・読み・例文・類語

しはく【淄博】

中国、山東省中央部の工業都市淄川しせん博山炭田ほかボーキサイト石灰石などの鉱山もある。陶磁器ガラスなどを産する。人口、行政区282万(2000)。ツーポー

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改訂新版 世界大百科事典 「淄博」の意味・わかりやすい解説

淄博 (しはく)
Zī bó

中国,山東省中部の市。省直轄市。高青,恒台,沂源の3県を含めて市域は5942km2(うち市区2914km2)。市区人口は282万(2000)。もともとこの市域は,淄川県,博山県,臨淄県などの地であったが,1945年,日本軍の占領が終わると,炭田のある工業地区として発達していた淄川,博山の両鉱区を合して淄博特区がつくられた。さらに49年,淄博工鉱特区とされ,50年,市に移行。続いて55-69年にかけて,張博市,淄川県,博山県,臨淄県も併合され,広大な市区が誕生した。鉱工業と鉄道交通の要衝によって発展した都市で,市の行政中心は,膠済線(済南~青島)と,南の博山と北の勝利油田に向かう支線の交差する張店鎮に置かれた。

 この地域は泰山,魯山の北麓の,安定した土地にあり,前面には漁塩の利をもたらす海をひかえ,良好な自然条件のもとで生産力に恵まれていた。殷・周以前からの文化の伝統をもち,春秋戦国時代を通じて,華北の雄国であった斉の基盤の地はここであった。国都の臨淄(臨菑,臨甾)は,10万近い人口を擁し,商工業が発達していたのに加え,中原よりもむしろ高い文化の伝統を誇り,西門の稷門(しよくもん)付近には全国から学者文士が集まった(稷下の学士)といわれる。今もその遺跡は残り,周囲14km余の長方形の大城と,その南西隅に小城(周囲7km余)をもつ二重の城壁が発見されている。秦はここを征服して斉郡となしたが,項羽は斉国と改め,漢代にも王国の中心として重要視された。しかし南北朝時代,たび重なる戦乱に疲弊し,晋が江南へ移動して以来は特にはなはだしく,北斉のときには県も廃されてしまった。臨淄にかわったのは東の益都で,以後中心はこちらに移った。

 また西の淄川も古い歴史をもつ都市であったが,石炭が発見されてから発展し,その奥で炭田をもとに清末に県の設けられた博山とともに,近代になってから山東一の工業都市となった。特に博山は県になる以前の宋代から窯業の伝統をもち,清代にはガラス工業もおこった。1898年(光緒24)ドイツが山東の利権を入手すると,これらの鉱山もドイツの手に渡り,日本も第1次大戦後は日中合弁会社を作って採掘を行った。1937年,日中戦争が勃発するや,すぐにこの地区を占領し,軍需資源の確保に努めたのも,この工業基地の重要性を示すものであろう。解放後は豊富な鉱産資源を活用した総合的な工業都市となっている。また先の臨淄故城をはじめ,斉国の四王冢(ちよう),管仲墓,三士冢等,古代斉国に関連する遺跡,観光地が多い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「淄博」の意味・わかりやすい解説

淄博
しはく / ツーポー

中国、山東(さんとう)省中部、魯山(ろざん)の北麓にある工業都市。地級市であり、5市轄区、3県を管轄する(2016年時点)。1945年に淄川(しせん)、博山(はくさん)両鉱区が合併し、1955年に市制が敷かれた。人口428万(2014)。膠済(こうさい)線(青島(チンタオ)―済南(さいなん))、博山線(張店(ちょうてん)―博山)が交わり、沿線に市街区が広がる。淄川、博山に大きな炭田があり、19世紀末のドイツによる膠州湾租借後、本格的に採炭が開始された。石炭のほか、ボーキサイト、石灰石などの鉱山、高青(こうせい)油田や金家油田をはじめとする油田、ガス田もある。隋(ずい)代に始まる博山の陶磁器、ガラスは特産である。市東部の臨淄(りんし)区には、春秋戦国時代に斉(せい)国の都が置かれた。

[駒井正一・編集部 2017年1月19日]

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