深浦(読み)ふかうら

日本歴史地名大系 「深浦」の解説

深浦
ふかうら

中海南東最奥部、米子港南部の新加茂しんかも川河口部付近の海域をさす。古代以前加茂川は現新加茂川河口付近で中海に注いでいたといわれ、同地付近は米子湊に先行する湊であったと推定される。中世末までは西伯耆の代表的良港とされており、天正(一五七三―九二)以降湊山みなとやま(のち米子城)築城や米子城整備に伴い、しだいに米子浦(米子湊)へ海運の中心が移ったのであろう。近世には深浦は米子城の南を占める防衛地帯となり、城南部には御船手曲輪が設けられて深浦門・船頭屋敷・水主部屋・船小屋などが配された(享保五年「湊山金城米子新府」県立博物館蔵など)

深浦
ふかうら

[現在地名]吉田町深浦

法花津ほけづ湾の北に位置し、東西に走る法花津山脈の南側にある。西は俵津たわらづ浦(現東宇和郡明浜あけはま町)、東は法花津浦に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「深浦 岩山之茅山有」と村名がみえる。吉田藩領に属した。

太閤検地石高は五一石七斗五升五合であるが、正保検地では石高が三倍強に増加している。この間に縄延が三寸短縮されたことを考え合せても急激な増加である。

「郡鑑」によると承応元年(一六五二)戸数三六戸、人口一三九人、水主一九人。寛文六年(一六六六)の調査では当浦の本網(伊達氏入封以前からあったもの)二帖、結出網(藩から新しく認められたもの)一帖があり、それぞれ庄屋・村君に所有されており、特定の漁場をもっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「深浦」の意味・わかりやすい解説

深浦[町] (ふかうら)

青森県西端,西津軽郡の町。2005年3月旧深浦町と岩崎(いわさき)村が合体して成立した。人口9691(2010)。

深浦町南西部の旧町。西津軽郡所属。人口2845(2000)。艫作(へなし)崎の南にあり,日本海に面する。秋田県境をなす白神山地が海岸に迫り,海岸段丘が発達している。村域の85%以上を占める山林にはブナ,ナラなどの広葉樹が多い。1603年(慶長8)に津軽藩領となる以前は秋田藩領で,現在でも秋田県能代市とつながりが強い。県境近くの大間越(おおまごし)には近世に野内(のない),碇ヶ関(いかりがせき)と並び津軽三関に数えられる番所があった。村名は岩崎漁港に突出している弁天島が岩崎と呼ばれたことに由来する。県内では最も温暖で,タバコの栽培などが行われる。崩山西麓には津軽国定公園に含まれる十二湖があり,海岸にも海食洞など景勝地が多く,1973年には岩崎から山越えで弘前市に至る弘西林道が開通し,観光開発に力を入れている。海岸沿いにJR五能線と国道101号線が平行して走る。

深浦町北東部の旧町。旧西津軽郡所属。人口8954(2000)。秋田県境をなす白神山地が南部にあり,町域の9割近くを山林が占める。北と西は日本海に面し,海食崖,海岸段丘の発達した海岸に沿ってJR五能線,国道101号線が走る。中心集落の深浦は天然の良港で,近世には鰺ヶ沢,十三湊,青森とともに津軽藩の四浦の一つに数えられ,奉行所が置かれて,北前船の風待港としてにぎわった。また背後の山地から産する木材の集散地でもあった。明治中期以降,鉄道の発達により衰退するが,1936年五能線の全通により交通事情は好転した。農林漁業を中心とし,深浦港の整備によりイカ漁を主とした漁業の振興に力を入れている。深浦東部にある円覚寺は貞観年間(859-877)の創建と伝えられ,薬師堂内の厨子(重要文化財)は県内最古の木造工芸品とされる。大戸瀬崎から艫作崎にかけては断崖,奇岩,洞穴などが多く,津軽国定公園に指定されている。艫作崎西方海上に久六島がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「深浦」の意味・わかりやすい解説

深浦
ふかうら

愛媛県の南西端,宿毛湾に臨む愛南町城辺の漁業集落。製氷所,鉄工所漁業協同組合魚市場などが立ち並ぶ。深く湾入しているため,暴風時は多くの船が避難する避難港となる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android