清須(市)(読み)きよす

日本大百科全書(ニッポニカ) 「清須(市)」の意味・わかりやすい解説

清須(市)
きよす

愛知県北西部にある市。2005年(平成17)、西春日井(にしかすがい)郡西枇杷島町(にしびわじまちょう)、清洲町(きよすちょう)、新川町(しんかわちょう)が合併して市制施行、清須市となる。2009年西春日井郡春日町(はるひちょう)を編入市域尾張平野中央部の平坦地に広がる。南東名古屋市西区・中村(なかむら)区との境を庄内(しょうない)川が、中央部を新(しん)川がそれぞれ南西に流れ、北部、西部を南流してきた五条(ごじょう)川が、市の南端部で新川に合流。南東―北西方にJR東海道本線、東海道新幹線、名古屋鉄道本線が走る。東海道本線枇杷島(びわじま)駅から東海交通事業城北線が分かれ、名古屋鉄道本線から分岐する犬山(いぬやま)線、津島(つしま)線が通る。北部を名古屋第二環状自動車道、国道302号が、東部を国道22号が走り、名古屋第二環状自動車道の清洲(きよす)東、清洲西のインターチェンジがある。なお、市名は市内の「清洲」の地名によるが、江戸時代前期頃まで、清洲は「清須」と記されることが多く、新市名はこの用字を採用。

 五条川左岸の朝日(あさひ)を中心に、名古屋市西区にまたがる貝殻山貝塚(かいがらやまかいづか)は、弥生前期の標式土器(貝殻山式土器)が出土したことで知られる。中期の方形周溝墓群、後期の環濠集落も検出され、国指定史跡。14世紀中頃成立の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に伊勢神宮内宮領の「清須御厨(きよすみくりや)」がみえる。1478年(文明10)頃、尾張国2郡(海西郡・愛智郡)の支配権を獲得した守護代織田敏定は、守護所を清須に移し、1483年には守護斯波義良を清須城に迎えた。1555年(弘治1)守護代家を滅ぼした織田信長は清須城に入り、これを本城とする。守護所移転以来、清須は尾張の中心地となり、城下も地方都市として発展していたとみられる。関ヶ原合戦後、清須城には徳川家康の9男義直(よしなお)が入る。しかし、井水の便が悪く、低湿地で水害の恐れがあったため、家康は義直の居城を名古屋に移すことを決定。1610年(慶長15)清須城下武家屋敷、寺社、町家、住民から、町名、橋名に至るまで、ことごとく名古屋城下に移転させた(清洲越(きよすごし))。清須城下は一挙に衰退したが、1616年(元和2)に東海道と中山道を結ぶ美濃(みの)路の宿場として再び賑わった。清須の東方、庄内川右岸の西枇杷島町小田井(おたい)地区は名古屋宿と清須宿の間に位置する美濃路の要衝で、織田敏定の築城と伝える小田井城があった。1611年(慶長16)青物などを扱う問屋ができ、1622年(元和8)枇杷島橋が架設されてからは毎日市が立つようになった。市場は橋詰や堤上に商家が並び、名古屋城下の台所を預かって繁盛する。18世紀ごろには問屋が38軒に増え、名古屋の城下町に販売する市場特権を有し、城下の延長のような市街景観を呈した。南部の新川地区は清須城外堀の外側、美濃路から津島路への分岐点の須ヶ口(すかぐち)に盛り場があり、遊女町もできていた。旧春日町地区は江戸時代から昭和初期まで、全国にその名を知られた宮重大根(みやしげだいこん)発祥の地として著名。幾度となく洪水を繰り返す庄内川の治水のため、1787年(天明7)分流路として比良(ひら)(名古屋市西区)の大蒲(おおがま)沼から伊勢湾の榎津(えのきづ)(同中川区)までを結んで新川が開削されている。

 近年は、名古屋のベッドタウンとして市街地化が著しい。また、紡績をはじめパルプ、食品、機械などの工業が盛ん。例年6月に行われる尾張西枇杷島まつりには、5輌の山車が練り歩く。面積17.35平方キロメートル、人口6万7352(2020)。

[編集部]


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