渡辺重石丸(読み)わたなべいかりまろ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「渡辺重石丸」の意味・わかりやすい解説

渡辺重石丸
わたなべいかりまろ
(1837―1915)

幕末・明治期の国学者、神道家。豊前(ぶぜん)国中津(大分県中津市)に生まれる。初名重任(しげとう)、のち重石丸と改める。号は豊城(ほうじょう)、また鶯栖園隠士(おうすえんいんし)、捫虱庵(もんしつあん)主人、鉄十字。祖父重名(しげな)(1759―1831)、父重蔭(しげかげ)(1792―1881)、兄重春(1831―1890)、いずれも国学者である。初め漢学を学んだが、のち平田篤胤(ひらたあつたね)の書を読んでこれに傾倒し、1867年(慶応3)平田銕胤(かねたね)(1799―1880)のもとに名簿を送り、篤胤没後の門人となる。維新後、京都皇学所御用掛(ごようがかり)、香取(かとり)神宮少宮司、内務省社寺局事務取扱等を歴任したが、1877年(明治10)官途を退き、著述と教育に専念した。彼は、篤胤の神道思想にみられるキリスト教との習合をさらに徹底し、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)こそが全知全能の宇宙の主宰神であると説く「真天主(しんてんしゅ)教」を唱えたことで、神道思想史上注目される。大正4年10月19日、79歳で没した。墓所は東京都豊島(としま)区の雑司ヶ谷(ぞうしがや)霊園。おもな著書に『天御中主神考』(1873)、『真教説源』(1874)、『真天主教説略』(1874成稿)、『固本策』(1889)などがある。

[高橋美由紀 2016年7月19日]

『村岡典嗣著『神道史』(1956・創文社)』

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朝日日本歴史人物事典 「渡辺重石丸」の解説

渡辺重石丸

没年:大正4.10.19(1915)
生年:天保8.11.15(1837.12.12)
幕末明治期の国学者。本姓,国前直。初名は重任,のち重石丸と改める。通称は与吉郎,鉄次郎。号は豊城,鶯栖園隠士など。豊前国中津(中津市)の生まれ。祖父重名,父重蔭,兄重春いずれも国学で知られた。早くから中津藩儒手島物斎,同野本白巌に漢学を学び,安政4(1857)年中津に私塾道生館を開いて子弟を教授し,敬神尊皇の精神を鼓吹した。慶応3(1867)年,平田篤胤の著書を読み,その没後門人となる。明治2(1869)年京都皇学所御用掛兼講官となったが,皇学所が廃されて大学校教授に転じ,大学校も廃されて平田銕胤の塾に迎えられた。のち大教院,教部省などに出仕したが,10年以後は東京・麹町に私塾道生館を再開して専ら教育と著述に従った。その著『固本策』は乃木希典をいたく感激させたという。

(白石良夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渡辺重石丸」の解説

渡辺重石丸 わたなべ-いかりまろ

1837-1915 幕末-明治時代の国学者,神道家。
天保(てんぽう)8年11月15日生まれ。渡辺重蔭(しげかげ)の次男。野本白巌(はくがん)にまなび,元治(げんじ)元年家塾道生館をひらく。のち平田篤胤(あつたね)の没後門人となる。維新後,皇学所御用掛,香取神宮神職などをつとめた。大正4年10月19日死去。79歳。豊前(ぶぜん)中津(大分県)出身。初名は重任(しげとう)。号は豊城,鶯栖園隠士など。著作に「天御中主神考」「固本策」。

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