港町(読み)ミナトマチ

デジタル大辞泉 「港町」の意味・読み・例文・類語

みなと‐まち【港町】

港を中心として発達した町。港のある町。

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精選版 日本国語大辞典 「港町」の意味・読み・例文・類語

みなと‐まち【港町】

〘名〙 港のある町。港によって発展した町。
※一握の砂(1910)〈石川啄木〉手套を脱ぐ時「港町(ミナトマチ) とろろと鳴きて輪を描く鳶を圧せる 潮ぐもりかな」

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改訂新版 世界大百科事典 「港町」の意味・わかりやすい解説

港町 (みなとまち)

〈みなと〉とは元来〈水の門〉の意で,瀬戸あるいは川口を指す。日本では港町といえば城下町,門前町宿場町,市場町と並んで近代以前の歴史的都市分類に包含され,現代の港湾都市と区別されることもあるが,両者は同義語である。港というのは船舶が容易に出入し安全に停泊して,旅客・乗客の乗降・往来,ならびに物資の積卸や取引などが迅速にかつ危険なくできるように設備を整備した場所である。この機能を維持するために防波堤や停泊埠頭などの港湾施設や関連する付属機関施設が設けられ,さらにそれらの関連産業人口が集中して都市的集落が形成されることになる。これが港町であるが,港湾設備の規模と構造は科学技術の進展により,また水陸交通機関や経済生産活動の発展,加えて人口集積度が大となることにより発達し変容する。この港湾設備内容が都市形成の要素となり,また都市が港湾を支え,港湾が都市を支える。

 港町の立地点をみると,海上や河川交通の中心となる位置や陸上の交通網との接点に港町が形成され,一般的にそれは湾奥部や河川の河口部に位置する。しかし潮流,風力,河流などによって土砂の堆積が甚大な所では港町の機能は短く,盛衰が激しかった。また河岸に沿って通行することは初期の陸上交通にとって地形的抵抗が少なく交通が容易であるから,河川の合流点などに河港が発達する。河港は河流が緩流し河岸が平坦な場所に多い。前近代的交通体系では遠距離交通の場合,陸上交通より水上交通の方が便利であり,1日航程に応ずる沿岸地点に港町が立地する。しかも陸上交通網が発達した所では,渡河点に港町が形成されると,対岸にも同じ機能の集落が発達する。これを対向集落という。この場合,橋梁が構築されると渡津的港町の機能は消失する場合が多い。港を中心にした商業・経済活動の勢力影響圏域を港湾後背地hinterlandまたは単に後背地というが,この圏域の生産力や経済活動が港の発展に大きく関係し,また当該港湾の取引先の地域の構造も重要な要因となる。

 立地点からみて,港は海港,河港,湖港に,港湾機能上の目的から商港,工業港,漁港軍港,避難港などに分類され,制度上からは開港,不開港,自由港に分けられる。船舶交通機関の進歩によって,また輸送物資の生産品目や需要供給関係などによって,港湾機能は著しく変容し,近代的港湾都市へと発達する。逆に,とくに日本の場合には陸上交通が発達して,近世の河川交通にとって代わると,近世の港町の多くは衰退した。
港湾 →水運
執筆者:

港はすでに古代からあり,津,泊(とまり),湊などと呼ばれた。古くは海上交通の発達した難波津や武庫(むこ),ついで行基が開いたといわれる河尻大輪田泊魚住泊,韓(から)(福泊),室(むろ)(室津)などの五泊が著名である。古代末から中世には備後の尾道,伊勢の大湊安濃津(あのつ),越中の三国湊など各地の港に都市的発展がみられ,九州の博多や和泉のなどは対外貿易によってにぎわった。一方,草戸千軒(現,広島県福山市)のように洪水で潰滅(1673)したり,十三湊(とさみなと)(現,青森県五所川原市)のように近世になって衰微したものもある(〈〉〈〉〈〉の項目参照)。そのほか,古代・中世の港は交通の要衝であり,その地域における荘園などの物資集散地となり,あるいは市場が置かれるなどして集落の発展がみられたが,日本全国に都市としてのいわゆる港町が多数成立したのは,商品経済の発展する近世にいたってであるといえよう。

 近世の港町は,鎖国により海外貿易長崎に限定されたため,国内の物資流通の中継地としての役目を担うことになった。一定の商品経済発展を基礎とした近世社会の幕府や藩は,全国市場の中心をなす上方市場へ年貢米などの蔵物を輸送販売し,領内非自給物資を移入する窓口として領内の港町を整備した。幕領米の安全輸送をはかるため,寛文期(1661-73)には東廻海運西廻海運の両航路が幕府により開かれるなど,全国を廻る海運網が整備され,全国的に港町が発展していくことになった。しかし,近世前期まで北国海運の起点として栄えた小浜敦賀などは新航路成立により,上方への北国物資輸送の中継機能を大幅に低下させ,その後は往時の盛況を取り戻せなかった。

 18世紀以降の商品経済の展開は,城下町の窓口となる外港の港町をはじめとして港町のいっそうの発展をもたらすことになった。このため藩領では商品取扱いが城下町を経由せず,直接外港やその他の港町を通じ在郷町や農村と結ぶことになり,城下町商業を圧迫した。さらに藩領を越えた物資中継を行う,大河川の河口に立地した酒田新潟,三国などの港町は,その後背地の広さゆえに著しい発展を示した。また,周辺地域の商品生産発展に支えられ,漁師町の浦から町場として成長した浦町,港町も近世後期に出現した。しかし,一方では藩領の外港の中には,近辺の港町の成長によりその地位を脅かされ発展の止まったものもみられ,また航海技術の発達により沖合の航行が行われ,寄港地としての役目を失い発展の止まった尾道などのような港町もみられた。

 港町には物資保管の藩の蔵や問屋の倉庫が設けられ,大坂,新潟などの大きな港町では物資輸送のための堀が縦横に通じていた。重要な港町には,支配のために武士が派遣されているが人数は少ない。彼らの下には,活発な経済活動を行う問屋,仲買らを中心に,多くは選挙で選ばれた町役人が町会所で町務をとり,城下町などに比べればはるかに自由の空気が強かった。問屋を頂点に仲買・小売の商人や,船持,船宿,船大工,鍛冶,船頭,水主(かこ),沖仲仕の水運関連の職業従事者に,所によっては少なからぬ遊女が港町に居住し生活した。この港町は商業・経済都市としても成長していき,問屋などを多く生み出すことになるが,商品中継の都市としてとどまるのが一般で,商品物資の加工を行う手工業都市などに転化していくものはあまりない。

 徳川幕府が倒壊し近代に入ると,汽船の出現や鉄道の登場,さらに,その後の自動車輸送の発達が大きく港町の運命を決定づけた。水深の浅い港は汽船就航が不可能のためまずさびれ,代りに水深の深い,水面の広い港が近代港湾都市として築港・整備され,成長することになった。とくに横浜,神戸などの貿易港の都市の発達は著しかった。新たに横須賀,佐世保,呉などの軍港都市も生み出されたが,また近代工業の発展に伴い,それと結びつく港湾都市が成長・発達していった。
河岸(かし)
執筆者:

ヨーロッパにおいて,港湾から発達した都市の最も古いものは,地中海沿岸のものである。フェニキア人の創設によるものは,イタリアやスペインにみられる。次いでギリシア人の植民市が西地中海に現れ,マルセイユ,アンプリアス(東北スペイン)などに遺跡を残している。ローマ人による植民市は,首都ローマとの交易の必要からも,港町の性格をとるものが多かった。いったん衰退した商業が中世後期になって復活すると,地中海や北海沿岸に,港湾を中心とした都市が台頭してくる。これについてはのちに触れる。新航路の発見によって,世界貿易が成立し,海外植民地がつくられると,基幹となる貿易港は,未曾有の発展を遂げた。ポルトガルのリスボン,スペインのセビリャ,オランダのアムステルダム,イギリスのロンドンなどの港町は,一国の経済を支配する力をもつようになる。また,蒸気船の登場やスエズ,パナマ運河の開設以後,マルセイユ,ジェノバ,サウサンプトンなどの古い港町も活気づいた。このほかに,ヨーロッパには北欧の漁港のような特徴的な港町もある。また,注意すべきことに,ヨーロッパには大河川やこれらを結ぶ運河が発達し,河港をもつ都市が重要な地位を占める場合が多い。フランスのパリ,ドイツのケルンハンブルクブレーメン,スイスのバーゼルのほか,ロンドン,セビリャも河港である。

 ところで,ヨーロッパにおける港町として最も特異なものは,中世後期から近代初頭に栄えた地中海と北海沿岸のそれである。北海とその周辺における諸都市は,ハンザ都市と呼ばれ,法的自治と商業上の経済力を備えて,相互に連合し,同盟軍隊すらもった。封建諸侯に対して対等の資格で主権を主張し,統合政治権力を欠いたドイツにあっては,事実上の小国家の地位を得ていた。これらのうち,たとえばハンブルクは,19世紀に至るまで自由市として,ドイツ諸邦のなかで重きをなし,現在でも商業・税制上の特別の待遇をうけている(ハンザ同盟)。地中海にあっては,旧来のナポリ,パレルモ,ローマの外港オスティアを凌駕して,11世紀ころから,新興の港町が登場する。ベネチア,ジェノバ,ピサである。これらはいずれも,地中海における遠距離貿易の拠点として大量の流通をつかさどり,巨大な利潤を蓄えた。そればかりでなく,港町には,法的もしくは実質上の自治が承認され,通行税の徴収権が付与されたり,国王関税の減免特権が認められたりした。各国商人の商館が建てられ,港湾および海上で起こる紛争に関する自治的制裁組織(海事裁判所)の設置が行われた。港町は,単に物流の結節点であるばかりではなく,搬入される原材料を用いる先進的な産業組織をもつことが多かった。ベネチアのガラス工業,ピサやジェノバの染色,製革などがその例である。こうして経済力と政治力を備えた港町は,周域の農地を取得して支配し,港湾を中軸とした小国家のごとき形態をとる。これこそが地中海型都市国家の典型である。なお,フランスのマルセイユ,スペインのバルセロナなども,この地中海型都市国家に近い性格をもっていた。
執筆者:

中国の水運においては,海運が発達する以前はいうまでもなく,それ以後も内陸水運が重要な役割を果たし,とくに中国南部の主要河川の要所には港湾都市が発達し,地域の中心都市となった。本流と支流の合流点,運河と河川の交会点,また海運の発達したのちは,海運と内陸水運の結節点などに大きな港湾都市が生まれた。唐・宋時代以降,水運による流通が地域経済発達の鍵を握るようになってからは,中国の都市発達は港湾の有無,その盛衰によって左右されたといえよう。

 北方に中心のあった秦・漢時代やそれ以前にも,南方の長江(揚子江)流域では小規模な港湾基地は存在したであろうが,港湾都市といえるものは,三国時代に呉の都となった建業(南京)である。長江よりの運河も引かれ,都城の郭外に港が設けられ,呉より南朝を通じて,江南の政治・経済の中心となった。隋・唐になると大運河の開通により,運河の要衝に港湾都市が発達し,とくに長江との結節点である揚州と,北方の都,長安・洛陽の外港といえる汴州(べんしゆう)(開封)が,南北二大港湾都市として栄えた。宋代には国の中心が,むしろこのような港湾都市に移り,蘇州,潤州(鎮江),杭州など,運河に沿う港湾都市が経済力を背景に発達した。また唐代から盛んになった南海との貿易港として広州が成長していたが,つづいて泉州や明州(寧波)も海港として栄え,とくに後者は海運と江南運河との結節点として大都市となった。元・明時代には国都が北へ移り,運河も北へ延長され,北方にも准安,済寧,臨清などの港湾都市が生まれ,海港としても山東半島の登州(蓬萊),萊州(掖県)や天津が有力な都市となった。また長江流域の武昌(武漢),湖口,荆州(宜昌),重慶,成都なども,各地域の流通圏の中心として発達した。

 しかし内陸河川や運河沿岸に位置する港湾の自然条件は,リアス式海岸に位置する海港と異なって不安定で,砂泥の堆積による流路の変更や淤塞(おそく)(泥でつまること)で,一時期の大都市が急速に衰退し,より条件のよい地点に新しく港湾都市が営まれることもあった。一般に港(碼頭)は,本流より運河が引かれて城郭に近接した城外に設けられ,城門との間の地区は商業地区として繁盛した。海外との通商に関する公的機関もここに置かれた。また他地域からの船舶が往来するとともに,人口や文化の交流もすすみ,港湾独特の風俗もみられた。

 漁港は,小規模に行われる内陸水面より,集団的大規模に行われる海洋漁業において発達した。とくに良好な漁場をひかえる山東半島や東南海岸では,上記の交易港が同時に漁業の基地であった。また軍港と称しうるものも,伝統的に海軍力を重視しなかった中国では発達が遅く,清末になって北洋海軍などの艦隊が置かれ,その基地として旅順,威海衛(威海市)などが設けられるまでは,とくにみるべきものはない。
執筆者:

古代における海上東西交易路の要衝に位置した東南アジアの沿海部には,風待ち,積荷の積換えなどのため,古くから港市(港町)の発生がみられた。有力な港市のなかには,いずれもマレー半島にあったと比定される〈盤盤〉〈頓遜〉〈狼牙脩〉など,中国に国家として認められ,中国と朝貢関係を結んだ国も少なくない。港市国家のなかには,強力な海軍力を背景に海上ルートを支配し,交易船からの通行税の徴収や中継物資の独占のうえに〈制海路制国家〉ともいうべき国家へと発展したものもあった。7~8世紀,マラッカ海峡の制海権を背景に繁栄したスリウィジャヤはその代表である。これらの港市国家の人口構成がきわめて国際色豊かであったことは,たとえば頓遜には〈五百家族の天竺胡〉〈千余人の天竺婆羅門〉がいたとする中国史書の記述などにも示されている。

 おもに中継港としての機能を果たした港市国家に対し,時代が下るにつれ,内陸ルートを強権的に支配し,租税として徴収した森林生産物を中心とする後背地の物産の輸出独占を権力の基盤とする新たなタイプの港市国家が発生する。ビルマ(現,ミャンマー)のペグー,タイのアユタヤなどがこれに属する。ペグーの支配域が主として港とその周辺に限定されているのに対し,アユタヤは物産の生産される広大な領域を後背地としてもち,その集荷路にも支配を及ぼしている点が異なるが,首都である港市に同じく顕著な国際性がみられることが同時代史料によっても知られる。
執筆者:

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日本歴史地名大系 「港町」の解説

港町
みなとちよう

[現在地名]函館市港町一―三丁目・浅野町あさのちよう

昭和二四年(一九四九)から続く町。昭和六年三月亀田郡亀田村は大字廃止と字名変更を実施し、旧大字亀田村の字有川通ありかわどおりを中心に、字ゴミかわ・字七重浜ななえはま・字大谷地・字石川野いしかわのの各一部を併せて字港とした。北端は上磯かみいそ町に接し、亀田村で唯一函館港に面する所であったのが字名の由来であった(亀田村字地番改正調書)。昭和一二年の人口一千九四五(函館市史)。同二二年に亀田小学校港分校が開校。昭和二四年、亀田村と函館市との合併問題が持上がった。結局字港の一部だけが函館市に編入され、函館市港町となった。この編入以前の昭和一〇年に函館高等水産学校が当地に開校し、同校は同二四年に北海道大学水産学部となった。

港町
みなとまち

[現在地名]小樽市堺町さかいまち港町みなとまち

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三二年(一八九九)まで存続した町。入船いりふね川の河口部にあたり、南は有幌ありほろ町、北は堺町など。近世はヲタルナイ場所の運上屋が置かれ、一八六一年(文久元年)から場所請負人により海岸部で埋立が行われたという。明治四年頃には四、五戸の官舎があるだけになっていたが、開拓使が埋立を始め、港町と名付けたとされる(小樽市史稿本)。同四年「湊町」が置かれたという(状況報文)。同年五月役屋敷に貫目改所が置かれたが、同五年九月銭函ぜにばこ村に移設(小樽市史)。同五年の小樽郡一号区内戸籍表に港町とある。同六年の「後志国地誌提要」に港町とみえ、戸数一八(官員一・平民一七)、人口一二〇(うち官員一八)、寄留戸数一九(官員四・平民一五)・人口四三(官員七・平民三六)

港町
みなとちよう

大正一一年(一九二二)から昭和四一年(一九六六)までの町名。絵鞆えとも半島の中央部、室蘭港に面した現在の海岸かいがん町などの一帯にあたる。地名の由来は港として旧上陸地点であったことによる。もとは室蘭区大字札幌通さつぽろどおりの旧室蘭運輸事務所(明治四四年設置)の角から日本一にほんいち坂までの地で、大正一一年四月に室蘭区港町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)

港町
みなとまち

明治一二年(一八七九)より同三五年まで存続した町。明治一二年四月垂美たるみ村が湊町と改称(状況報文)。北の新地しんち町、南のはま町を結ぶ地にある。同二四年調の「徴発物件一覧表」では港町とし、戸数一〇〇、男二三八・女一九六、官廨一、倉庫三、学校一、艀漁小廻船一九八。同二五年の鰊差網放数調記(古平町史)では一千六四放。同三二年の戸数一一二・人口五五一で、古平港に面して漁業家・回漕店などがあった(状況報文)

港町
みなとまち

ほん町の西に位置する。昭和二四年(一九四九)大字留萌村の一部を区画して成立。大字留萌村字市街しがい弁天通べんてんどおり南浜手通みなみはまてどおり・ルモイ・南記念通みなみきねんどおり・セゴシ・留萌通・瀬越通せごしどおりの一部で、一丁目から三丁目まで設置。

港町
みなとまち

[現在地名]釧路市港町・大町おおまち一―八丁目・入舟いりふね三―七丁目

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと真砂まさご町・釧路村の各一部で、オタイト(苧足糸)と称されていた地。昭和七年の世帯数一二八・人口六九三(釧路郷土史考)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「港町」の意味・わかりやすい解説

港町
みなとまち

港湾設備をもち、流通機能を果たす水陸交通の拠点集落をいう。古代日本の律令(りつりょう)制下では、内外交易の拠点として難波(なにわ)・博多(はかた)の両津を定めて、官営の交易を行っていた。地方の国府は、中央との連絡に便利な水陸交通の要地を選んで設けられ、その外港として国府津(こうづ)(国津(こづ))をもつものがあった。荘園(しょうえん)が発達すると、それから納められる貢租は水路によって輸送されることが多く、鎌倉時代に入ると荘官級名主(みょうしゅ)層が問丸(といまる)となって輸送を管理していた。北陸の小浜(おばま)や瀬戸内海の尾道(おのみち)・兵庫などは全国的な水路の輸送基地として知られた。近世に建設された城下町には直属港湾がつくられて全国的な軍役体制がつくられていた。また当時南蛮貿易をはじめとして外国との交易が行われ、内政策のため蔵入地(くらいりち)を設けて中央への廻米(かいまい)納入を強制したりしたので、港町は大きく発展した。近世初頭から全国の諸平野で新田開発が進められると、三角州や扇状地平野を流れる川々の沿岸には、諸藩の貢米や日用貨物の輸送基地として藩倉や河岸(かし)が設けられて内陸の港町(蔵(くら)町)が発達していった。やがて幕末には開港を契機として横浜、函館(はこだて)その他の大資本を投入した近代的大港湾都市が形成されることになるのである。

[浅香幸雄]

『浅香幸雄著『中世の集落・近世の都市』(『新地理講座 第7巻』所収・1953・朝倉書店)』『豊田武・児玉幸多編『流通史1』(『体系日本史叢書13』1969・山川出版社)』『豊田武・児玉幸多編『交通史』(『体系日本史叢書24』1970・山川出版社)』『高瀬保著『加賀藩海運史の研究』(1979・雄山閣出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「港町」の意味・わかりやすい解説

港町
みなとまち

海岸,湖岸,河岸の港を中心に交通や物産の集散地として栄えた町。古代における大輪田泊 (おおわだのとまり) は有名であるが,港町は中世に入って大いに発達した。瀬戸内海沿岸では兵庫,神崎,尼崎があり,近畿地方では淀,大津,坂本が,越前では敦賀,三国湊が代表的な港町であった。各地の港町には荘園からの年貢米,運上物の集散のため問,問丸が発達し,倉庫も建てられた。中世後期では,泉州堺が有名であり,納屋衆の支配する自治都市としてヨーロッパにも存在が知られた。近世には,各地の特産物を生産する産業が藩営,民営を問わず興隆し,それらの物資輸送の役割を果す港町は諸藩でも特に重視した。港湾施設の充実とともに新しく商人を招き廻船業務を担当させた。江戸幕府でも,国内の重要な港町を直轄領として各港町に奉行をおき,港町行政を行わせた。直轄港町のなかでも,長崎は寛永年間 (1624~44) 以降国際貿易都市として栄え,オランダ,中国との貿易のみならず,異国文化を摂取する窓口としても特異な存在であった。明治維新後,物資運航が蒸気船に変更されたため,各港町は水深が浅くて使用に耐えず,鉄道の発達その他の理由も重なって次第に衰えていった。

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百科事典マイペディア 「港町」の意味・わかりやすい解説

港町【みなとまち】

古代末期以降の港湾に成立した商業集落,または商業都市。中世には荘園年貢物の積出し・保管・販売を中心として発達し,14世紀以後商品輸送の増大で急激に発展。近世は鎖国によって海外貿易が長崎に限定されたため,他の港町は国内流通の中継地としての役目を果たした。→港湾
→関連項目都市

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「港町」の解説

港町
みなとまち

主として港湾機能によって存立する都市。古代には各国におかれた国津や,大輪田泊(おおわだのとまり)などの津・泊があげられる。中世には地方荘園から中央への年貢・貢納物輸送のために港湾が設定され,尾道・敦賀・草戸千軒・兵庫などの中世港町が発達した。また東アジア世界との関係で博多が,北方世界との結びつきにより津軽半島の十三湊(とさみなと)が発展した。戦国期の堺・長崎・酒田では町衆(ちょうしゅ)による自治が展開した。近世になると,三都に結びつく各藩の城下町の外港都市として長岡藩の新潟,弘前藩の青森など全国的に形成された。近代には幕末の開港場を始点として横浜をはじめとする国際貿易都市が発展した。さらに社会の産業化にともない沿岸工業都市,あるいは軍港都市も各地に出現した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「港町」の解説

港町
みなとまち

主として中世以降,港を中心として発達した町
古代より対外交通や貢租(のちには荘園年貢)輸送の要港はあったが,商品流通の増大した鎌倉末期以降に,市・問丸 (といまる) の発生,商工人・船頭・人夫などの定住をみて,都市的発展をした。堺など自治を得た自由都市も出現。江戸時代,東廻り・西廻り航路の開発などで各地に現れた。博多・堺・兵庫・尾道・桑名・敦賀・小浜・酒田などが有名。

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