湊川(読み)ミナトガワ

デジタル大辞泉 「湊川」の意味・読み・例文・類語

みなと‐がわ〔‐がは〕【湊川】

神戸市六甲山に源を発し、南流して兵庫区中央区の境辺りで大阪湾に注いでいた川。明治時代に河道が変えられ、新湊川として長田区苅藻島の西で海に注ぐ。長さ12キロ。旧河道は新開地となった。
神戸市中央区の湊川神社付近の地。湊川の戦いの古戦場

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精選版 日本国語大辞典 「湊川」の意味・読み・例文・類語

みなと‐がわ ‥がは【湊川】

神戸市の中心部を流れる川。六甲山地に発し、天井川となって兵庫区と中央区の間を流れて大阪湾に注いでいたが、明治三四年(一九〇一)洪水防止のため長田区寄りに流路を付け替えられた。現在のものを新湊川と呼ぶ。旧湊川の付近は建武三年(一三三六楠木正成足利尊氏が戦った湊川の戦いの古戦場。

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日本歴史地名大系 「湊川」の解説

湊川
みなとがわ

天王谷てんのうだに川と石井いしい川の流れを合せ、明治三四年(一九〇一)まで現JR神戸駅南の中央区東川崎ひがしかわさき町で海に注いでいたが、流路変更で新湊しんみなと川ができたため旧河道は開発された。湊川は古来流路の変転があったといわれ、室町時代以前には兵庫津南の須佐すさの入江を河口としたともいう(神戸市史)

天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)に、大和法隆寺領の摂津国雄伴おとも宇治うじ宇奈五うなご岳の東は弥奈刀みなと川とあり、宇奈五岳は現兵庫区の会下えげ山に比定されている。「玉葉」に治承四年(一一八〇)六月八日、福原ふくはらに遷幸したばかりの高倉上皇から下向を命じられた九条兼実は、一四日に輿に乗って大物だいもつ(現尼崎市)を出発し、「戌刻到福原、於湊川辺又乗車」と記す。湊川は歌枕でもあり、藤原範兼の「みなと川うきねのとこにきこゆなりいく田のおくのさをしかのこゑ」(千載集)、慈円の「湊川鹿の音おくる松風の遠ざかりゆく舟をしぞ思う」(拾玉集)、西行の「みなと川苫に雪ふく友舟はむやひつつこそ夜をあかしけれ」(山家集)などの和歌があり、福原新都や生田いくたの森(現中央区)の近くを流れて輪田わだの湊へ注いでいたのであろう。寿永三年(一一八四)二月生田の森からいちたに(現須磨区)にかけた地を主戦場とする源平の合戦で、平通盛は「湊河辺」で源俊綱に誅戮されたという(「吾妻鏡」同年二月七日条)。中世、湊川にはいくつかの井手があって取水されていたらしく、そのうち湊川第三井手は古くから輪田庄分であったが、建仁元年(一二〇一)福原庄が抑留したため輪田庄の田地が干上がったという(建仁二年二月一四日「輪田庄庄官源能信等申状」九条家文書)

建武三年(一三三六)五月二四日夜、足利尊氏軍が播磨大蔵谷おおくらだに(現明石市)海岸に集結、翌二五日三隊に分れた尊氏方は、和田わだ岬に布陣した新田義貞と、湊川の西の宿にひかえた楠木正成軍を攻めた。

湊川
みなとがわ

仏生寺ぶつしようじ川の支川で総延長は一四二〇メートル(十二町潟を含む)十二町じゆうにちよう潟から氷見町のみなみ町を取巻くように南北に氷見中央部に流れ、本川ほんがわ町と南中みなみなか町の間に至って南東に右折し海に注ぐ。東側沿岸は岩上いわね村・上伊勢かみいせ町・下伊勢町・南上町・南中町・南下町・川原かわら町の七町村の北境をつくっている。西側はもと十二町村の一部である村上むらかみから朝日あさひ村・本川町に至って南東に向きを変えて湊町の南境をつくっている。近世の史料には、うち川・十二町潟じゆうにちようがた水吐みずはき川・なかはし川などとみえる。

湊川
みなとがわ

旧安房国境の山嶺をおもな水源とし、旧上総国天羽あまは郡内を流れ、湊地区で浦賀水道に注ぐ。二級河川。古くは天神山てんじんやま川とも称した。富津市最南端部の豊岡とよおか地区を北流、途中高宕たかご川・志駒しこま川・あい川などの支流を合せ、流路延長四三キロ、流域面積一〇九・四平方キロ。「快元僧都記」によれば天文四年(一五三五)八月北条氏康が鎌倉鶴岡八幡宮に改築用材を天羽郡嶺上みねがみ方面より伐り出して輸送したとされる。

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改訂新版 世界大百科事典 「湊川」の意味・わかりやすい解説

湊川 (みなとがわ)

兵庫県神戸市背後の六甲山地に源を発し,神戸市街地の中央を貫通していた川。典型的な天井川で,市街を分断したうえしばしばはんらんを起こすので1901年に河道の付替えが行われた。新河道は会下(えげ)山をトンネルで西方に抜けて苅藻(かるも)川に合流し,新湊川(長さ12km)と呼ばれるようになった。旧河道の一部は埋立てられて公園となり,一部は払い下げられて第2次大戦まで神戸最大の繁華街であった新開地となった。

 歴史上,湊川は2度の大合戦の舞台となった。最初は1184年(寿永3)の源平合戦で,鵯越(ひよどりごえ)から奇襲した搦手(からめて)の大将源義経の奮戦で平家方は総崩れとなった。いまひとつは,1336年(延元1・建武3)の足利尊氏・直義の東上軍と新田義貞・楠木正成の軍勢の決戦(湊川の戦)である。この戦いで討死した正成をまつる湊川神社が旧河道の東方にあり,市民からは親しみをこめて〈楠公(なんこう)さん〉とよばれている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「湊川」の意味・わかりやすい解説

湊川
みなとがわ

神戸市中心部を南流する川。延長12キロメートル。六甲(ろっこう)山地に発する天王谷(てんおうだに)川と石井川が合流して市街地を流れ、長田区苅藻島(かるもじま)町付近で大阪湾に注ぐ。かつては兵庫港と神戸港間で海に注いでいたが、しばしば氾濫(はんらん)をおこし海岸に土砂を堆積(たいせき)したので、1901年(明治34)上流の洗心橋(兵庫区湊川町)付近から西方に河道を付け替え、会下(えげ)山下はトンネルで水を導き、苅藻川に合流させ新湊川とした。2000年(平成12)会下山トンネルに替わる新湊川トンネルが完成している。旧河道は埋め立てられ「新開地」とよばれる歓楽街となり、明治末から昭和初めまで神戸第一の繁華街となった。なお、新開地の東方に湊川神社があり、一帯は1336年(延元1・建武3)楠木正成(くすのきまさしげ)らが足利(あしかが)軍と戦った湊川の戦いの地である。

[藤岡ひろ子]


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百科事典マイペディア 「湊川」の意味・わかりやすい解説

湊川【みなとがわ】

神戸市中部を南流する川。六甲山地に発し神戸港に注いでいたが,1891年水害防止のため長田港東部に注ぐ新湊川を開き,旧河道は埋め立てられた。旧河道筋は中央・兵庫両区にまたがり,湊川公園,歓楽街の新開地があり,付近に湊川神社がある。旧デルタ先端に造船所が立地する。
→関連項目楠木正成湊川の戦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「湊川」の意味・わかりやすい解説

湊川
みなとがわ

兵庫県神戸市,六甲山地に発する石井川と天王谷川が石井で合流し,かつて市街地中央を貫流していた川。下流に広い三角州をつくり神戸港に注いでいたが,1901年神戸港の埋没防止のため河道の瀬替えを行い,新湊川を開いた。その際湊川は埋立てられ,湊川公園や新開地,重工業地区となった。付近は楠木正成の湊川の戦いで知られ,ゆかりの湊川神社がある。

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