源師房(読み)みなもとのもろふさ

精選版 日本国語大辞典 「源師房」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐もろふさ【源師房】

平安後期の公卿村上天皇皇子具平親王長子。母は為平親王の女。藤原頼通の猶子となって、藤原氏と密接な関係を持ち、村上源氏基礎をきずいた。文芸を愛し、「後拾遺集」などの作者となり、歌合を主催した。著書に「叙位除目鈔」「土右記(とゆうき)」がある。寛弘五頃~承暦元年(一〇〇八頃‐七七

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デジタル大辞泉 「源師房」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐もろふさ【源師房】

[1008?~1077]平安中期の公卿。村上天皇の皇子具平ともひら親王の子。源の姓を賜り臣籍降下村上源氏の祖。土御門つちみかど右大臣と称された。のち太政大臣となったが、即日死去。詩文・和歌に長じた。著「叙位除目抄」、日記「土右記」。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源師房」の意味・わかりやすい解説

源師房
みなもとのもろふさ
(1008?―1077)

平安中期の公卿(くぎょう)。太政(だいじょう)大臣、従(じゅ)一位。村上(むらかみ)天皇の孫。具平(ともひら)親王の長子。幼名ます宮。母は為平(ためひら)親王の娘。1020年(寛仁4)12月26日、13歳(11歳説もあり)で元服。源朝臣(あそん)の姓を賜り、本名の資定(すけさだ)を改名した。この年正月、従四位下(げ)となり、昇殿。頼通(よりみち)の養子となる。24年(万寿1)道長の娘尊子と結婚。従三位(さんみ)となる。29年(長元2)正三位より従二位、左衛門督(さえもんのかみ)(「公卿補任(くぎょうぶにん)」は30年)となる。31年女院(上東門院)の住吉詣(すみよしもう)でに歌の序を書き和歌を詠んでいる。和歌会に序題を献ずることも多く、49年(永承4)「永承(えいしょう)4年内裏(だいり)歌会」では判者を勤仕した。59年(康平2)娘麗子は源師実(もろざね)と結婚。右大将、内大臣を経て69年(延久1)には右大臣。74年(承保1)従一位。翌年牛車に乗り宮門の出入りの勅許あり、また左大将、皇太子傳(ふ)を兼ねた。77年(承暦1)正月より疱瘡(ほうそう)を患い、2月17日、太政大臣に任ずるの勅宣を受けたが、同日、薨(こう)じた。村上源氏の祖であり、土御門(つちみかど)右大臣と称され、日記『土右記(どゆうき)』がある。また、師房の歌合(うたあわせ)もあり、和歌にも関心の深かったことがわかる。

[山中 裕]

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改訂新版 世界大百科事典 「源師房」の意味・わかりやすい解説

源師房 (みなもとのもろふさ)
生没年:1008-77(寛弘5-承暦1)

平安後期の公卿。村上源氏の祖。村上天皇皇子具平親王の長男。母は為平親王の女。初名は資定。1020年(寛仁4)元服して源姓を賜り,師房と改名。関白藤原頼通の養子となり,その妹尊子をめとった。24年(万寿1)従三位に昇り,摂関家の庇護のもとに累進して,69年(延久1)右大臣となったが,77年2月13日病により辞官,17日没した。政理故実に通じ,文事をよくした。邸宅の所在により土御門右大臣と称され,その日記は《土右記》と呼ばれた。もと97巻(20~69歳の間)あったというが,いま伝えられる逸文によっても,その才学がしのばれる。
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朝日日本歴史人物事典 「源師房」の解説

源師房

没年:承暦1.2.17(1077.3.14)
生年:寛弘5(1008)
平安中期の公卿。土御門右大臣と称される。村上天皇の子の具平親王とその兄の為平親王の娘の子。賜姓源氏。2歳のとき父と死別したが,姉の隆姫女王が藤原頼通に嫁したことで頼通の猶子になった。13歳の元服のとき源姓を得て資定王から師房に改名。万寿3(1026)年,権中納言に任じられ,62歳で右大臣。頼通の妹尊子を妻にし(藤原道長の指図か),生まれた俊房,顕房は左,右大臣に昇り,麗子は頼通の後継者師実に嫁し嫡男師通を生んだ。摂関家と姻戚関係を結んだことにより,村上源氏の地位を強力に高め「源氏といえども師房の子孫は御堂(道長流)の末葉に入る」といわしめた。『叙位除目抄』を著すなど故実にも通じ,頼通から教示された摂関家の故実を師実へと継承した。歌合 を主催するなど歌才を発揮し,勅撰集にも多くの歌が入る。50年間分あったという『土右記』(『土御門右大臣記』)は一部を残すのみ。<参考文献>片山剛「源師房序説」(『後期摂関時代史の研究』),木本好信『平安朝日記と逸文の研究』

(朧谷寿)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源師房」の意味・わかりやすい解説

源師房
みなもとのもろふさ

[生]寛弘5(1008).京都
[没]承保4(1077).2.17. 京都
平安時代後期の貴族。右大臣,従一位。村上天皇の皇子具平親王の第1王子。村上源氏の祖。関白藤原頼通の猶子となり,寛仁4 (1020) 年源朝臣の姓を受けた。その後権中納言,権大納言,内大臣などを歴任し,延久1 (69) 年右大臣となった。承保4 (77) 年2月 17日任太政大臣の勅宣が出されたが,幾時もたたず没した。著書に『叙位除目抄』,日記に『土右記』がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源師房」の解説

源師房 みなもとの-もろふさ

1008-1077 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
寛弘(かんこう)5年生まれ。具平(ともひら)親王の王子。母は為平親王の王女。村上源氏の祖。藤原頼通の養子となり,その妹尊子を妻として摂関家に密着。累進して右大臣,従一位にすすむ。土御門(つちみかど)右大臣とよばれた。才学すぐれ,歌は「後拾遺和歌集」以下に10首はいる。承保(じょうほう)4年2月17日死去。70歳。初名は資定。日記に「土右記(どゆうき)」。

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世界大百科事典(旧版)内の源師房の言及

【久我家】より

…江戸時代の家禄700石,笛の家。村上天皇皇子具平親王の子資定王が源姓を賜り源師房と改名,藤原道長の女婿となって右大臣に昇る。その子に俊房・顕房があり,後三条・白河両天皇の藤原氏抑圧策によって,俊房は左大臣に,顕房は右大臣に昇進した。…

※「源師房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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