源義光(読み)ミナモトノヨシミツ

デジタル大辞泉 「源義光」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしみつ【源義光】

[1045~1127]平安後期の武将頼義三男通称新羅三郎しんらさぶろう弓術に長じ、しょうをよくした。後三年の役に際し、官を辞して兄義家を助けて武功をあげた。

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精選版 日本国語大辞典 「源義光」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしみつ【源義光】

平安中期の武将。頼義の三男。義家の弟。新羅三郎と号す。後三年の役に、兄義家の苦戦を聞き、京での官を辞して救援におもむいて武功をあげ、東国佐竹氏武田氏小笠原氏の祖となったとされる。寛徳二~大治二年(一〇四五‐一一二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源義光」の意味・わかりやすい解説

源義光
みなもとのよしみつ
(1045―1127)

平安後期の武将。園城寺(おんじょうじ)の新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したところから新羅三郎と称した。父は頼義(よりよし)、母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)で義家(よしいえ)の同母弟。弓馬の術の達人といわれた。左兵衛尉(さひょうえのじょう)に在任して京都にあったとき、後三年の役で兄の義家が陸奥(むつ)国において藤原清衡(きよひら)を助けて清原武衡(たけひら)、家衡(いえひら)らを相手に苦戦していることを知り、救援に赴くことを朝廷に申し出たが許されず、ために1087年(寛治1)官を辞して兄のもとへ馳(は)せ参じた。そして義家とともに武衡、家衡を金沢柵(かねさわのさく)に打ち破り京都に帰った。その後、刑部丞(ぎょうぶのじょう)、左衛門尉(さえもんのじょう)、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守(かいのかみ)などを歴任し、この間、東国の受領(ずりょう)経験を契機としてこの地に勢力を伸ばし常陸国(茨城県)の佐竹郷本拠を構えた。また義光は笙(しょう)をよくしたが、豊原時忠(とよはらのときただ)を師とし、交丸(はしりまろ)とよばれる名器を授けられた。ところが陸奥国へ下向のとき、これを携行したが逢坂関(おうさかのせき)に彼を見送った師の時忠が別れを惜しんで帰らないので、義光は戦陣で名器を失うことを案じて、その名器を時忠に返したという。

[朧谷 寿]

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改訂新版 世界大百科事典 「源義光」の意味・わかりやすい解説

源義光 (みなもとのよしみつ)
生没年:1045-1127(寛徳2-大治2)

平安後期の武将。源頼義の三男。母は兄義家,義綱と同じ上野介平直方の娘。新羅(しんら)明神の社前で元服したことから〈新羅三郎〉と号した。弓馬の達人といわれ,1087年(寛治1)後三年の役鎮圧に苦戦している義家を助けるためひそかに陸奥に下向して左兵衛尉を解官(げかん)される。左衛門尉,刑部丞などの官職を得たが,多く東国にいて勢力を拡大していった。また笙の名手として説話に語られ,陸奥に赴く途次,足柄山で豊原時秋に秘曲を伝授したという話などがある。その子孫からは常陸佐竹氏,甲斐武田氏,信濃小笠原氏などが輩出している。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「源義光」の解説

源義光

没年:大治2.10.20(1127.11.25)
生年:寛徳2(1045)
平安後期の武将。頼義と平直方の娘の子。義家,義綱の同母弟。新羅明神で元服し新羅三郎と号す。後三年の役で寛治1(1087)年,義家の救援に無断で下向,左兵衛尉を解官される。以後,中央での目立った活躍はなく官職も刑部丞にとどまるが,『尊卑分脈』は天仁2(1109)年に発生した源義忠暗殺事件を義光の陰謀とする。一方,嘉承2(1107)年,常陸国で平重幹と共に甥の源義国と争い,長男義業は同国の豪族佐竹氏の祖となる。このほか,武田,小笠原氏など各地の有力豪族も子孫。園城寺とも関係が深く,近江に所領を有す。義光は弓馬とともに笙にも優れ,後三年の役の東下に際し,秘曲の伝授にまつわる逸話を残している。

(元木泰雄)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源義光」の意味・わかりやすい解説

源義光
みなもとのよしみつ

[生]寛徳2(1045)
[没]大治2(1127).10.20.
平安時代中期の武将。新羅三郎,館三郎とも呼ばれた。頼義の3子。母は平直方の女。左兵衛尉,刑部丞,常陸介,甲斐守,刑部少輔を歴任。幼少より弓馬の術にたけ,音律を好んだ。後三年の役に,兄義家が清原氏と苦戦しているとき,みずから官を投げうって陸奥へ救援に赴き,ついに金沢柵を包囲,陥落させた。また常陸介として,常陸国久慈郡佐竹郷を所領に得て,子孫がここに土着して佐竹氏を称した。

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百科事典マイペディア 「源義光」の意味・わかりやすい解説

源義光【みなもとのよしみつ】

平安後期の武将。頼義の子。通称新羅(しんら)三郎。後三年(ごさんねん)の役で兄義家を助けて武功をあげ,のち常陸介(ひたちのすけ)・甲斐守(かいのかみ)を経て,刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)。笙(しょう)を巧みにし,陸奥(むつ)へ下る途中,足柄(あしがら)山で豊原時秋(とよはらのときあき)に秘曲を授けたなどの伝説を生んだ。子孫からは常陸(ひたち)の佐竹氏,甲斐の武田氏,信濃(しなの)の小笠原氏などが輩出。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源義光」の解説

源義光 みなもとの-よしみつ

1045-1127 平安時代後期の武将。
寛徳2年生まれ。源頼義の3男。後三年の役のとき兄義家の苦戦をきき,官を辞して救援にむかった。笙(しょう)の名手で,このとき見おくる豊原時秋に秘曲を伝授したという説話がある。甥(おい)の源義忠暗殺の黒幕ともつたえられる。常陸介(ひたちのすけ),甲斐守(かいのかみ)。子孫は佐竹氏,甲斐源氏などに分流。大治(だいじ)2年10月20日死去。83歳。通称は新羅(しんら)三郎。

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世界大百科事典(旧版)内の源義光の言及

【錦織氏】より

…近江国滋賀郡錦織郷(今の大津市内,園城寺の北)が本拠。清和源氏,源義光の子孫。前九年の役の後,源頼義は錦織郷に館を構えて住んだと伝え,その子義光も園城寺やその近傍と関係が深く,子孫は山本,柏木,錦織,箕浦(みのうら)の諸氏となった。…

【箕浦氏】より

…近江国坂田郡箕浦(今の滋賀県坂田郡近江町)を本拠とする。清和源氏,源義光の子孫で,山本義経の子義明が箕浦冠者と称している。義光は園城寺をはじめ近江と関係が深く,その子孫は,常陸に土着して佐竹氏となったもののほかは,多くは近江,とくに湖東地方で栄え,山本(東浅井郡湖北町),柏木(甲賀郡水口町),箕浦,錦織(大津市)の諸氏となった。…

※「源義光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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