滋賀(県)(読み)しが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「滋賀(県)」の意味・わかりやすい解説

滋賀(県)
しが

近畿地方の北東部を占める県。周囲を山で囲まれた内陸県であるが、中央部には、県の面積の約6分の1を占める琵琶湖(びわこ)があり、その周囲に広い平野が広がる。北は福井県、東は岐阜県、南は三重県、西は京都府と境を接している。本州、四国、九州のほぼ真ん中に位置しており、日本の人口重心もかつては滋賀県にあった。県庁所在地は大津市。

 滋賀県はその恵まれた交通的位置を生かして、古来、多くの城下町、宿場町、港町などの歴史的都市を生み出してきた。滋賀県(近江(おうみ)国)が、縄文時代以来つねに東日本と西日本との接点として重要視され、また壬申の乱(じんしんのらん)をはじめとして数多く天下分け目の戦いの戦場となってきたのも、この地域が日本のほぼ中央部に位置する交通要衝であり続けたことによるといってよいであろう。この特色は、現在もなお変わっていない。すなわち、JR東海道本線、東海道・山陽新幹線、国道1号・8号、名神高速道路など、日本でももっとも重要な交通ルートが県内を走り抜けているのである。交通の点で恵まれているということは、同時に、人や物資の流動が激しいということでもある。たとえば人口関係の統計をみても、このことがよく理解できる。2020年(令和2)の国勢調査時の県人口は141万3610人で全国第26位、全国人口の1.1%を占めているにすぎない。1970~1975年の人口増減率は10.8%で全国5位、1990~1995年は5.3%で同2位、1995~2000年は4.3%で同1位、2005~2010年は2.2%で同6位、2015~2020年は0.05%で同8位と低下傾向にある。しかし、日本全国の人口増減率も年々低下傾向にあり、滋賀県は全国平均を大きく上回っていること(2015~2020年の全国平均は-0.8%)、1970年の人口が全国第39位だったものが2020年には第26位になっていることを考えあわせると、この間、人口は著しく増加してきたといえる。この現象は、基本的には京阪神大都市圏の拡張として把握することができるが、県の北東部は中京圏に属していることも無視できない。いずれにせよ、滋賀県は、未曽有(みぞう)の都市化の波にさらされてきたといってよい。このような背景もあって、日本一の湖である琵琶湖の水質汚濁が著しいため、近畿地方の水の供給源である琵琶湖をよみがえらせようと、1980年(昭和55)には琵琶湖富栄養化防止条例が施行され、「琵琶湖元年」といわれた。また、1984年8月には大津市で世界湖沼環境会議が開催され、広く世界に湖沼の環境問題がアピールされた。1993年琵琶湖はラムサール条約登録湿地となる。面積は4017.38平方キロメートル、人口141万3610(2020)。

 2020年10月現在、13市3郡6町からなる。

[高橋誠一]

自然

地形

県域は、近江盆地というまとまった地形区とほぼ一致する。その中心部には琵琶湖があり、それを取り囲んで沖積平野、さらにその外側には古琵琶湖層といわれる丘陵、もっとも外縁部を山地が取り巻くという、同心円状の地形配列を示している。沖積平野や丘陵、段丘の分布には地域的な偏りがあり、南部と東部に広く存在している。すなわち、草津川、野洲(やす)川、日野川などによって形成された湖南平野と、愛知(えち)川、犬上(いぬかみ)川などによって形成された湖東平野は、ともに広大な面積を有し、古くから近江の穀倉地帯としての地位を占めていた。これに対して、姉(あね)川、高時(たかとき)川などによって形成された湖北平野と、石田川、安曇(あど)川などによって形成された湖西平野は、狭小で、より扇状地的な色彩が強い。また湖岸には、細長い砂州と砂浜が広がる一方、かつては大中之湖(だいなかのこ)、入江(いりえ)内湖、曽根(そね)沼などの内湖といわれる浅いラグーン(潟湖(せきこ))が存在したが、その大部分は第二次世界大戦から戦後にかけて干拓されて、いまではわずかに西の湖などの小規模なものを残すにすぎない。平野と山地の間に分布する丘陵は、いずれも高度200~300メートル、南部に多く北部に少ない。鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)から西に延びる丘陵群(布引(ぬのびき)・水口(みなくち)・瀬田丘陵など)がもっとも広く、湖西には堅田(かたた)丘陵、泰山寺野(たいさんじの)、饗庭野(あえばの)などがある。これらの丘陵地は乏水性のため開発が遅れたが、1970年ごろから住宅団地、工業団地、ゴルフ場などとして激しい変貌(へんぼう)を遂げつつある。近江盆地の最外縁部を取り巻く山地は、その大部分が南北方向の断層によって形成された地塁性の山地である。したがって各断層谷は古くから交通路として利用されてきた。東辺の伊吹山地(いぶきさんち)は最高峰の伊吹山(1377メートル)、鈴鹿山地は御在所(ございしょ)山(1210メートル)などからなる。西の比叡山地(ひえいさんち)、比良山地(ひらさんち)は武奈ヶ岳(ぶながたけ)(1214メートル)などからなる。また北辺には野坂山地、南辺には信楽(しがらき)山地がある。自然公園には、琵琶湖、鈴鹿の2国定公園と、三上・田上(みかみたなかみ)・信楽、朽木・葛川(くつきかつらがわ)、湖東の3県立自然公園がある。

[高橋誠一]

気候

地形的にまとまっているにもかかわらず、気候の点では、南北で明瞭(めいりょう)な差を示す。南部は夏雨型の瀬戸内式あるいは東海・関東式気候であり、北部は冬季の積雪が多い北陸式の気候である。二つの気候区は、明神崎(高島市鵜川(うかわ))と米原(まいはら)あるいは安土(あづち)(近江八幡(おうみはちまん)市)を結ぶ線で分かれるといわれる。このように二つの対照的な気候区があることは、人文現象にも大きな影響を与えている。農業面ではもちろんのこと、民家の屋根瓦(がわら)なども、雪止め瓦の有無や大きさの点で異なっているのである。ことに湖北では、「一里一尺」といわれるように、北上するにしたがって積雪量が増大し、多くの雪害をもたらしている。

[高橋誠一]

歴史

先史・古代

近江の歴史は古い。すでに縄文時代には、湖南、湖東の低地性遺跡と伊吹・鈴鹿山地の高地性遺跡を中心として集落が数多く成立していた。なかでも、湖南の瀬田川に沿った石山貝塚と湖北の尾上(おのえ)、葛籠尾崎(つづらおざき)遺跡は著名である。後者は琵琶湖やその付属内湖に多く存在する湖底遺跡の代表的な例であるが、その成因については未解明である。いずれにせよ、先史時代の近江の特色は、西日本文化と東日本文化が交錯していたことであり、この特色は以後も長く続くこととなった。弥生(やよい)時代の代表的遺跡としては、大中の湖南遺跡(だいなかのこみなみいせき)(国の史跡)がある。これは静岡県の登呂(とろ)遺跡より約300年前の古い農業集落遺跡であり、鎌倉時代にまで続くものである。この遺跡自体は西日本的な特色をもっている。また野洲(やす)市小篠原(こしのはら)では、24個の銅鐸(どうたく)が発見されており、弥生時代における近江の繁栄がしのばれるのである。古墳時代に入っても近江の重要性は変わることがなかった。瓢箪山(ひょうたんやま)古墳(近江八幡市)、大岩山古墳(野洲市)、茶臼山(ちゃうすやま)古墳・大塚山古墳(大津市)、若宮山古墳(長浜市湖北町)など、県内には多くの前期古墳が存在している。また中期から後期にかけては、新羅(しらぎ)、百済(くだら)からの渡来系氏族による文化も多くみられる。高島市の稲荷山(いなりやま)古墳をはじめ東近江(ひがしおうみ)市石塔寺の三重石塔や日野町の鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓などはその代表例である。

 このように早くから開けた近江国は、古代に至って、より華やかな脚光を浴びることになった。すなわち、667年(天智天皇6)には都が飛鳥(あすか)(奈良県)から大津に遷(うつ)された。これは近江大津宮とよばれるが、はたして大津「京」といいうる都城プランを備えていたか否かなどの問題はまだ解明されてはいない。さらに、天智(てんじ)天皇の没後は、壬申(じんしん)の乱の主要な舞台として、そしてまた742年(天平14)には紫香楽宮(しがらきのみや)(甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町地区)の造営が始められ、761年(天平宝字5)には保良宮(ほらのみや)に孝謙(こうけん)天皇が行幸するなど、近江国は古代政治史の中心でもあった。近江は古代の畿内(きない)には属さないが、畿内に準ずる国として扱われていたのである。平安京に遷都されて以後は、近江と都との関係はますます密接になっていった。東海道、東山道、北陸道の3本の官道が通じ、鈴鹿、不破(ふわ)、愛発(あらち)、逢坂(おうさか)の関なども近江を取り巻くような位置に設置されていた。琵琶湖の水運も盛んに利用され、北陸諸国の物資などは、越前(えちぜん)(福井)の敦賀(つるが)から塩津を経て琵琶湖上を大津まで運ばれ、のち京へもたらされた。また比叡山延暦(えんりゃく)寺の門前町も大津の坂本に発達、京や奈良の有力な社寺の荘園(しょうえん)も多数置かれていた。

[高橋誠一]

中世

鎌倉時代には近江守護である佐々木氏が勢力を振るっていたが、京都の寺社などとの対立が激しくなり、また鎌倉末期には、湖北の京極(きょうごく)氏と湖南の六角(ろっかく)氏に分かれて相争い、混乱状態が長く続いた。農村では自治的な惣(そう)がつくられ、天台宗などの旧仏教にかわって真宗が広がっていった。また湖北では浅井氏が台頭、近江国の政治的状況も大きく変化していったが、それを決定づけたのが織田信長であった。信長は浅井氏や佐々木六角氏を滅ぼし、真宗門徒による一向一揆(いっき)をも弾圧、1576年(天正4)の安土築城でようやくいちおうの終止符が打たれた。この戦乱の間、佐々木六角氏の居城であったとされる観音寺城(かんのんじじょう)(国の史跡。近江八幡市・東近江市五個荘(ごかしょう)川並町)は、わが国の中世山城(やまじろ)のなかでも代表的なものとして注目されている。信長は安土築城の翌年、安土山下町定(さんげまちさだめ)を発して楽市・楽座を開いたが、これはその後の城下町に大きな影響を与えた。本能寺の変後は、豊臣(とよとみ)秀吉の支配するところとなり、長浜、近江八幡、大津などの城下町が栄えた。

[高橋誠一]

近世

1600年(慶長5)徳川家康は、関ヶ原の戦いで功績のあった井伊直政(いいなおまさ)を佐和山城主に据えたが、井伊氏はのちに彦根城下町を建設した。家康はまた大津城を膳所に移し城下町を建設した。この時期には東海道、中山道(なかせんどう)の整備も進められ、多くの宿場町が栄え、さらに琵琶湖水運の港町もかつてないほどの隆盛を示した。とくに注目すべきは、近江八幡や日野、五個荘などの商人が全国的に活躍し、近江商人として多くの利益をあげたことである。近江商人の伝統が現在も継承されていることは、日本でも有数の企業のなかに近江出身の資本が多くみられることによってもうかがえる。

 江戸時代の近江は、藩領、天領、旗本領、寺社領が錯綜(さくそう)していた。文政(ぶんせい)年間(1818~1830)には総石高(こくだか)84万1564石、在国大名は彦根藩35万石、膳所藩7万石、水口藩2万5000石、大溝(おおみぞ)藩2万石のほか、1万石台の仁正寺(にしょうじ)(西大路)、宮川、山上(やまがみ)、堅田(かたた)、三上(みかみ)の9藩が置かれていた。これに加えて、天領も多く大津と信楽には代官所が置かれ、また他国大名24、旗本146、公卿3、門跡(もんぜき)5、寺院44、神社15、その他9の所領に細分され、なかには1村11給に及ぶものもあったという。

[高橋誠一]

近・現代

このように細分されていた近江国が、現在のような滋賀一県のまとまりを有するようになるには、なおいくつかの過程を必要とした。すなわち、明治維新直後の1868年(慶応4)4月、幕府直轄領や旗本領などが統廃合されて大津県が成立、1871年(明治4)6月には大溝藩が廃藩されて大津県に編入された。同年7月には廃藩置県が実施され、大津県のほかに膳所、水口、西大路、山上、彦根、宮川、朝日山の7藩が県となり、同年11月には湖南が大津県、湖北が長浜県として統合された。翌年の1月には、大津県は滋賀県に改称、2月には長浜県も犬上(いぬかみ)県と改称されたが、9月には犬上県が滋賀県に統合されて、ようやく近江一国からなる滋賀県が成立したのである。その後、1876年から4年半ほどの間、敦賀(つるが)県のうち4郡が滋賀県に編入されていたが、1881年にはそれも解消されて現在の滋賀県が固定した。その後、滋賀県では、東海道本線を中心とする交通網の整備が進み、かつ繊維などの近代的工業の立地、琵琶湖に付属した内湖の干拓事業の進展や農業用水の整備など、約100年の間に極端なまでのさま変わりを遂げた。

[高橋誠一]

産業

滋賀県はかつては典型的な農業県であった。近江米の名で知られる米作農業は近畿地方でも兵庫県に次ぐ存在であった。しかし、1964年(昭和39)の名神高速道路の開通を契機として、急速な工業化が進んだ。1955年の農業人口は約20万2000、工業人口は約8万7000であったのに対し、1975年には農業人口約8万5000、工業人口約18万9000と逆転している。2000年(平成12)の国勢調査の産業別就業者の割合をみても、第一次産業は3.5%(全国5.0%)、第二次産業は38.8%(29.5%)、第三次産業は56.5%(64.3%)であり、第二次産業が全国のなかでも活発な県であることが理解できる。滋賀県の産業の特質をひとことでいえば、農業県から工業県への変身であったといいうるのである。

[高橋誠一]

農林業

滋賀県の農家戸数は約4万5000戸(2004)とかなり多い。しかし専業農家はわずか6.5%でしかなく第2種兼業農家が圧倒的に多い。京阪神大都市圏に県の大部分が包摂されつつあることから考えれば、この傾向には今後ますます拍車がかかることが予想される。農業経営耕地面積は5万4800ヘクタールで県の総面積の13.6%、このうち田面積は5万0400ヘクタールで92.0%を占める。米作の比率が極端に高いが、これは長年にわたる農業用水確保の努力と、かつて40余あった琵琶湖内湖の干拓事業などの結果によるといってよい。しかし、1969年以降、米の減反政策によって転作が広く行われるようになった。野菜栽培や花卉(かき)栽培はその好例である。また以前から盛んであった肉牛肥育に加えて、乳牛飼育や養鶏なども活発に行われている。樹園地の面積は少ないが、湖南の丘陵地帯では銘茶の栽培が有名、ほかに若干の果樹栽培もみられる。林業は安曇(あど)川、犬上川上流域で盛んであるが、かつて山地で多くみられた薪炭(しんたん)生産は極端に衰退し、山村の過疎化現象の主要な原因の一つになった。さらに第二次世界大戦前に多かった桑園も、現在ではほとんどみられない。

[高橋誠一]

水産業

沖島(おきしま)、堅田、尾上(おのえ)などに漁業集落がある。内水面漁業漁獲量は3537トン(2002)で、エビ、コアユ、フナ、シジミ、イサザ、ホンモロコ、コイなどが多い。アユ苗の供給量は全国の大部分を占めるが、安曇川と姉川の河口にアユ産卵用の人工河川が1981年(昭和56)につくられた。1935年(昭和10)ごろから始められた淡水真珠養殖は、かつては県の漁業生産額の約3分の1を占めていたが、1983年以降、湖水の汚濁や外国産のものにおされるなどの理由で、衰退の傾向にある。また、えり、追(お)い叉手(さで)、簗(やな)、四手網(よつであみ)など古くからの漁法が残っている。

[高橋誠一]

工業

古くから、浜縮緬(はまちりめん)(長浜市)、紡績(彦根市)、麻織物(愛荘(あいしょう)町)、蚊帳(かや)(長浜市・東近江市)、綿クレープ(高島市)などの繊維関係工業が盛んであった。このほか信楽焼(しがらきやき)(甲賀(こうか)市)、扇骨(せんこつ)(高島市)、薬(甲賀市・日野町)、仏壇(彦根市)などの特色ある地場産業も発達していた。これらは現在もなお継承されているが、ことに繊維関係工業が多く立地していたことは、その後の滋賀県の工業にとって大きな影響を与えた。すなわち、大正~昭和初期にかけての近代的繊維工場の建設(大津の旭(あさひ)人絹・東洋レーヨン・昭和レーヨン、彦根の近江絹糸・鐘淵(かねがふち)紡績、能登川の日清(にっしん)紡績など)は、基本的には琵琶湖の水を求めてのものであったが、伝統的な技術の集積も無視することはできない。これらが近代工業の端緒となったわけで、いわば滋賀県にとっての第一次工業化であったといってよい。現在は県にとっての第二次工業化の時代であるといいうる。1964年(昭和39)の名神高速道路の開通を契機として、最初は栗東(りっとう)インターチェンジ付近を中心に京阪神からの工場進出が始まり、その動きはしだいに湖南・湖東全体に広がり始めた。大部分は電気機械、一般機械、輸送用機械、鉄鋼、金属、化学など非用水型の内陸型工業であるが、湖南、草津、水口、日野の各工業団地をはじめとして五十数か所に及ぶ工業団地も操業、滋賀県の工業製品出荷額の伸びは、全国的にみても、きわめて顕著である。

[高橋誠一]

開発

都市化の激しい滋賀県では、多様な大規模開発がみられるが、そのなかでも特筆すべきは琵琶湖をめぐる開発であろう。面積672.4平方キロメートル、湖面標高85メートル、最大水深103.8メートルの琵琶湖の総貯水量は約275億トンと見積もられる。水位1センチメートルについて約600トンもの水が増減するわけであり、その調節をめぐって過去多くの工事が行われてきた。1890年(明治23)の琵琶湖疎水、1905年(明治38)の南郷洗堰(なんごうあらいぜき)、1912年の第二琵琶湖疎水などがその代表例である。しかし、疎水による上水道や宇治川発電所による発電用水および大正~昭和初期の湖岸の近代的工場による工業用水の利用以外は、水位のコントロールがおもな課題であり、水資源としての重要性が叫ばれるようになった。すなわち、1960年代以降の京阪神大都市圏の活発な都市化と工業化は、急速に上水道や工業用水の需要を高めてきた。そこで下流の要求と滋賀県の地域開発計画が連関して成立したのが「琵琶湖総合開発特別措置法」(1972)であった。これは、琵琶湖の水位をマイナス150センチメートルを限度として毎秒40トンの新規利水を目ざし、水質の保全や総合的な開発をも行うというもので、1973年から1997年まで「琵琶湖総合開発事業」が実施された。しかし、これに伴って、さまざまの環境問題が生じており、その解決に向けての論議が盛んである。県では1999年度から「マザーレイク21計画」と称して、長期的な琵琶湖総合保全整備計画に取り組んでいる。琵琶湖はその下流域に住む約1400万もの人々にとって、まさに命の源ともよぶべき湖である。その恵まれた自然景観の保全と有効的かつ健全な利用のための対策が焦眉(しょうび)の課題となっているのである。

[高橋誠一]

交通

以前から滋賀県は、東海道、中山道、西近江路などの幹線交通路が通過するという交通の要地であった。この交通の重要性は現在も変わっていない。1880年(明治13)には東海道線大津―京都間が開通(1889年に全線開通)し、1890年には草津―柘植(つげ)間も開通(関西鉄道、1907年に国有化)、1882年には北陸線の長浜―柳ヶ瀬間、1900年(明治33)に近江鉄道の彦根―貴生川(きぶかわ)間、1913年(大正2)には高宮―多賀(たが)間も結ばれた。また、1931年(昭和6)には西近江路に沿って浜大津―近江今津間の江若(こうじゃく)鉄道(現JR湖西(こせい)線の一部)も開通した。第二次世界大戦後は、これら近代的交通機関の整備が進んだ。鉄道では1956年(昭和31)米原―京都間の電化完成、1957年北陸新線の開通、1964年東海道新幹線開業、1970年京都―草津間の複々線化などの整備が進められ、1974年にはJR湖西線も開通した。一方、道路についてもその整備は急速に進んだ。1964年の名神高速道路と琵琶湖大橋の完成をはじめとして、比叡山、伊吹、奥比叡、奥琵琶湖、鈴鹿などの有料道路の開通、さらに1974年には近江大橋が完成、1980年には北陸自動車道が米原で名神高速道路と連結された。その後も、1988年に京滋バイパス、1989年に湖西道路、2008年には新名神高速道路の草津田上インターチェンジ―亀山ジャンクション間などが開通している。琵琶湖の水上交通こそ、以前の隆盛を弱めて観光に重きが置かれるようになったとはいうものの、多様な交通機関が発達しており、京阪神や中京との近接性はますます高まりつつある。しかし、県内交通については、依然としてマイカーに頼らざるをえない地域が多く、また積雪の多い地域では冬季の交通が途絶するなど、問題も多く残されている。

[高橋誠一]

社会・文化

教育文化

江戸時代の藩校は、1799年(寛政11)に彦根藩で稽古館(けいこかん)(1830年に弘道館(こうどうかん)と改称)が開設されたのがもっとも早い。これを契機として、膳所藩の遵義(じゅんぎ)堂、水口藩の翼輪(よくりん)堂などが次々と設立された。稽古館は県立彦根東高校の前身とされ、遵義堂も県立膳所高校の所在地に設立されていた。また江戸時代には、近江全体で約460の寺子屋や私塾があったといわれる。「近江聖人」といわれる儒学者の中江藤樹(なかえとうじゅ)(現、高島市安曇川町出身)をはじめとして、同じく儒学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)・浅見絅斎(あさみけいさい)、産婦人科医の賀川玄悦(かがわげんえつ)、石の収集で有名な木内石亭(きうちせきてい)、鉄砲鍛冶(かじ)の国友藤兵衛(くにともとうべえ)、国学の北村季吟(きたむらきぎん)・伴蒿蹊(ばんこうけい)、俳人の森川許六(きょりく)などの学者や文人が輩出している。

 教育施設は2012年(平成24)時点で11大学のキャンパス(滋賀大学、滋賀医科大学、滋賀県立大学、立命館大学、龍谷大学、成安造形大学、聖泉大学、長浜バイオ大学、びわこ成蹊スポーツ大学、びわこ学院大学、放送大学滋賀学習センター)、3短期大学(滋賀短期大学、滋賀文教短期大学、びわこ学院短期大学部)がある。かつては県内に大学が少なかったため、自県内大学入学率は全国的にみても最低のランクに属していたが、1989年から1995年の間に四つの四年制大学の開設(一部は学部の開設)が実現し、県内の高等教育施設の整備状況は改善されつつある。また、文化・社会教育施設には、県立図書館、県立近代美術館、県立琵琶湖博物館、県立芸術劇場びわ湖ホールなどがあり、大津市や彦根市には総合運動場、野洲市には希望が丘文化公園、特殊なものとして県立養鱒(ようそん)場や県立琵琶湖・環境科学研究センターがある。とくに1996年(平成8)に開設された県立琵琶湖博物館は、自然・人文にわたる総合的な博物館で、水生動物・植物の展示も充実したものとして内外の注目を集めている。

 新聞は、1890年(明治23)に創刊された『近江新報』や1901年(明治34)創刊の『滋賀日報』などが早い。しかし『滋賀日報』は1910年代には廃刊され、『近江新報』もまた、これに対抗して1921年(大正10)に『江州日日新聞』が創刊されて以来、経営が困難になって、1939年(昭和14)には廃刊された。『江州日日新聞』は1940年の第一次新聞統合の際に『日刊大津新聞』などを吸収合併して『近江日日新聞』と改称、さらに1942年の第二次新聞統合で『近江同盟新聞』を吸収合併して『滋賀新聞』となった。その後、中央紙に押されて経営不振に陥り、1979年(昭和54)以来休刊となっている。また放送機関としては、NHK大津放送局(テレビ・ラジオ)、びわ湖放送(テレビ)、エフエム滋賀(ラジオ)、KBS滋賀放送局(ラジオ)がある。このうちびわ湖放送は、1972年に朝日、毎日、読売、京都、中日新聞の5社を含む9社が発起人となって設立した県内唯一の民間テレビ放送局である。

[高橋誠一]

生活文化

滋賀県には文化財が多い。国指定の重要文化財は2018年(平成30)時点で、819件(うち国宝は55件)という全国でも屈指の県(東京・京都・奈良に次いで第4位)である。ことに延暦(えんりゃく)寺、園城(おんじょう)寺、石山寺、日吉(ひよし)大社などのある大津市に集中している。また国指定の史跡の数も多く、特別史跡の安土城跡と彦根城跡をはじめとして40以上の史跡がある。これは、古代以来長年にわたって都であり続けた京都に接していることや、日本の中央部に位置して東西日本の交流の舞台となったことなどに起因するといってよいであろう。

 このような古い歴史と豊富な文化財、そして恵まれた自然環境にはぐくまれて、バラエティーに富む民俗文化や民俗芸能が伝えられてきた。長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)の曳山行事は国指定重要無形民俗文化財、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。油日(あぶらひ)神社の太鼓踊(甲賀市)、朝日豊年太鼓踊(米原市)は国の選択無形民俗文化財に指定されている。このほか東近江市薬師堂裸踊り、守山市勝部の火祭(1月)、甲賀市田村神社の厄除(やくよ)け祭(2月)、近江八幡(はちまん)市日牟礼(ひむれ)八幡宮の左義長(さぎちょう)祭(3月)、大津市日吉大社の山王祭、甲賀市の水口祭、多賀大社の馬頭人祭(4月)、米原市筑摩(ちくま)神社の鍋冠(なべかむり)祭、日野町綿向(わたむき)神社の日野祭、石山寺の青鬼祭(5月)、大津市近江神宮の漏刻(ろうこく)祭、野洲市御上(みかみ)神社の御田植祭、多賀大社の御田植祭(6月)、東近江市太郎坊宮の千日大祭、大津市のみたらし祭(7月)、各地の琵琶湖祭、大津市建部(たけべ)大社の船幸祭、多賀大社の万燈(まんとう)祭、長浜市木之本町木之本(きのもとちょうきのもと)の木之本地蔵縁日(8月)、近江神宮薪(たきぎ)能、日野町の芋(いも)くらべ祭(9月)、大津祭、野洲市のずいき祭、彦根城祭(10月)、太郎坊宮のお火焚(ひたき)祭(12月)などの行事があり、多くの見物客を集める。

 滋賀県にはまた多くの民俗的行事が継承されている。単なる観光資源的な祭りとは違って、それらはいまもなお、地域の住民に密着した、いわば「生きている祭り」であるといってよい。とくに湖北地方で冬に行われる春をよぶ「おこない」の行事などは、村の若者にとっても、ある意味では最優先の行事であり続けているし、各地に残る「宮座」なども、実生活に強く結び付いているのである。地域住民から遊離した祭りが、全国的にみて脚光を浴びつつある現在、県内にこれほどの生きている祭りのあることは、特筆されてよいであろう。あしき意味での都市化の波に巻き込まれることのない伝統が、湖と平野と山をもった国において、なお命脈を保っているのである。

[高橋誠一]

観光

恵まれた自然と歴史を背景として、滋賀県には多くの観光資源がある。すでに室町時代以降、「石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋(やばせ)の帰帆、堅田の落雁(らくがん)、粟津(あわづ)の晴嵐(せいらん)、三井(みい)の晩鐘、唐崎(からさき)の夜雨、比良(ひら)の暮雪」の近江八景があった。歌川広重(ひろしげ)の絵にも描かれて多くの人の旅情を誘ったが、第二次世界大戦を境としてしだいにその魅力を失ってきた。そこで1949年(昭和24)、南湖周辺に限られていた近江八景を改めて、対象地域を拡大した琵琶湖八景が制定された。「夕陽(せきよう)…瀬田石山の清流、煙雨…比叡の樹林、涼風…雄松崎(おまつざき)の白汀(はくてい)、暁霧(ぎょうむ)…海津大崎の岩礁、新雪…賤ヶ岳(しずがたけ)の大観、月明…彦根の古城、春色…安土八幡の水郷、深緑…竹生島(ちくぶじま)の沈影」で、ときには勇壮、ときには繊細な琵琶湖沿岸の景観の美しさが巧みに表現されている。また琵琶湖観光は、スポーツなどの場としても脚光を浴びつつあり、単なる名所遊覧ではなく、多様な観光客の要望にこたえうるものとして、期待を集めている。観光の中心はなんといっても琵琶湖である。県観光物産課によれば、琵琶湖をめぐる観光資源は次の七つに区分されている。(1)歴史を物語る社寺と街並みと新しいレジャー施設の「文化となぎさの楽園」(石山寺、琵琶湖大橋、浮御堂(うきみどう)、比叡山延暦寺など)、(2)新鮮な空気と緑の丘陵「若人の丘」(希望ヶ丘、金勝(こんぜ)アルプス、狛坂磨崖仏(こまさかまがいぶつ)、東海自然歩道など)、(3)友人や家族と過ごす湖畔「団らんの水辺」(休暇村近江八幡、水郷、蒲生野(がもうの)、安土城跡など)、(4)さわやかな木漏れ日と清らかな谷「深山と渓谷」(永源寺・鈴鹿ハイキングコース、石塔寺など)、(5)格調の高い「城と庭園」(玄宮園、彦根城、龍潭(りゅうたん)寺、醒井(さめがい)養鱒(ようそん)場など)、(6)いちまつの寂しさの漂う「史跡と古戦場」(姉川古戦場、賤ヶ岳、余呉湖(よごのうみ)、小谷(おだに)城跡、渡岸寺(どうがんじ)など)、(7)野性的な連山と静かな浜辺「山岳と白砂」(近江舞子(まいこ)、海津大崎、比良山、箱館山(はこだてやま)スキー場など)がそれで、多目的な要求にこたえうる観光資源の存在することが、よくわかるであろう。2004年(平成16)の滋賀県への観光客は年間4368万人で、1960年ころの1000万人足らずと比較すれば、飛躍的な伸びであるが、観光客のうちで県内に宿泊する人は約7%で、京都を根拠地とする日帰り客が多い。

[高橋誠一]

伝説

県面積の6分の1を琵琶湖が占め、伝説にも湖国の風土が色濃く感じられる。陰暦の2月ごろ湖上に突風が吹き荒れるのを「比良八荒(ひらはっこう)」という。大津から堅田浮御堂へ百夜通いをした大津の女が、一夜を余す日に湖底に沈んだ。比良八荒はその怨念(おんねん)であるという。湖北の余呉湖は「羽衣伝説」で有名。類型が多い伝説であるが、ここの天女は2子を生み、1子は菅原道真(すがわらのみちざね)となり、1女は大蛇に変身したと伝えている。類話は東近江市の「おこぼ池」にもある。比良山系の「小女郎池(こじょろいけ)」は、蛇に魅せられた農婦が山の池へ通ううち蛇身に化したという。明智左馬之助光春(あけちさまのすけみつはる)が、光秀敗戦の知らせで安土打出浜(あづちうちいではま)から馬を湖水に乗り入れ、唐崎(からさき)へ渡ったという「湖水渡(こすいわたり)」の碑は大津にある。湖東の御沢(おさわ)神社(東近江市)は平重盛(しげもり)の遺子「三和姫」を祀(まつ)る。姫は流浪の旅の果てに竜神に変じ、御沢の二つ池の主になった。雨乞(あまご)いに霊験(れいげん)のある神とされる。竹生島にも竜神伝説がある。湖西堅田に近い野神(のがみ)神社は、新田義貞(にったよしさだ)の寵姫(ちょうき)「勾当内侍(こうとうのないし)」を祀る。義貞討ち死にの報に湖水へ身を投げたという内侍の命日を弔って、毎年9月中旬から10月に湖の泥を墓石に塗り付けるなどの特異な儀式を行う「野神祭り」が行われる。大津逢坂(おうさか)の関のほとりに隠棲(いんせい)した琵琶の名手「蝉丸(せみまる)」のもとへ3年のあいだ源博雅(ひろまさ)が通い詰めて秘曲の伝授を受けたという伝説は、世阿弥(ぜあみ)によって謡曲『蝉丸』となって伝承されている。逢坂山の月心(げっしん)寺に「百歳小町」の木像がある。小野小町はこの地に老残の身を寄せたといわれる。謡曲『関寺(せきでら)小町』『卒都婆(そとば)小町』の2曲は、小町を描いた老女ものの傑作である。湖北の伊吹山の山神は荒ぶる神で、日本武尊(やまとたけるのみこと)をさんざんに苦しめた。尊も呪力(じゅりょく)を破られ、麓(ふもと)の「居醒(いさめ)の泉」(米原市)を飲むまで正気を失っていたという。この伝説の根底には、伊吹山信仰をめぐる伝承があったと思われる。東近江市君ヶ畑などに惟喬(これたか)親王の伝説がある。親王は弟宮に皇位を譲り、山野をさすらったが、のちに木地師(きじし)の祖になったという。

[武田静澄]

『『滋賀県史』全6巻(1927~1928・滋賀県)』『滋賀県市町村沿革史編さん委員会編『滋賀県市町村沿革史』全6巻(1960~1967・滋賀県)』『原田敏丸・渡辺守順著『滋賀県の歴史』(1972・山川出版社)』『滋賀県史編さん委員会編『滋賀県史 昭和編』全6巻(1974~1986・滋賀県)』『『角川日本地名大辞典25 滋賀県』(1979・角川書店)』『藤岡謙二郎編『びわこ周遊』(1980・ナカニシヤ出版)』『小林博・木村至宏編『近江の街道』(1982・サンブライト出版)』『「琵琶湖」編集委員会編『琵琶湖――その自然と社会』(1983・サンブライト出版)』『滋賀県百科事典刊行会編『滋賀県百科事典』(1984・大和書房)』『『日本歴史地名大系25 滋賀県の地名』(1991・平凡社)』


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