滝山寺(読み)たきさんじ

日本歴史地名大系 「滝山寺」の解説

滝山寺
たきさんじ

[現在地名]岡崎市滝町 山篭

たきの中央、青木あおき川の北岸の山腹にある天台宗の寺院。吉祥陀羅尼山薬樹王やくじゆおう院と号し、本尊は薬師如来鎌倉末期成立の滝山寺縁起によれば、役小角が滝壺より薬師如来を拾い上げ安置したのに始まり、後長く荒廃していたのを保安年中(一一二〇―二四)比叡山の僧仏泉永救が再建したという。仏泉以後の縁起の信憑性は高いので、縁起ならびに滝山寺文書などによると、最初の本堂は保安三年に建立され、棟木の銘に「保安三壬寅年三月八日不易古礎修覆之沙門永救、檀那物部朝臣伴氏女」(滝山寺縁起)とあった。やがて藤原氏系熱田大宮司が大檀那として深くかかわるようになった。大宮司季範の子粟田口法眼長暹、三河法橋祐範と、二人の兄である大宮司範忠の子式部僧都寛伝の三人が仏泉の弟子になっており、祐範は仏泉の跡を継いで二代住持となった。季範は妻とともに保延六年(一一四〇)寺内に蓮華れんげ寺を建立し、灯油料として恵那河内(現米河内町)を寄進した。範忠は、仁平元年(一一五一)の第二次の本堂造営を助成、また田畑二町四反を寄進して寺域の確定に尽力した。その結果四至は「南限稲熊三石、西限広石飛、北限松板山、東阿世美」という広いものになった。「稲熊三石」とはかぶと(現六供町)にあり、松板まついた山は寺裏の山である。東西ははっきりしないが、現岡崎市域の中央から北東一帯の地域とみられる。おそらく藤原氏系熱田大宮司の始祖季兼以来の岡崎北東山間部の開発に源をもつ所職が寄進されたのであろう。しかしこの所職も平氏政権の時期は大宮司家・滝山寺の手を離れたようである。範忠の寺領確定証文は「平家逆乱時引去」とあり、保元二年(一一五七)鋳造の鐘も持去られたと縁起は伝える。

鎌倉時代になると寺は大いに発展する。祐範の姉は源義朝の正室となり頼朝・希義兄弟を生んだ。寛伝は頼朝と従兄弟となった。祐範の姪、寛伝の姉(あるいは妹)足利義康の室となったが、子義兼、孫義氏は鎌倉幕府の有力者であった。正治元年(一一九九)に没した頼朝の一周忌に、寛伝は頼朝菩提のため山内に惣持禅そうじぜん院を創建して、頼朝等身大の本尊聖観音の胎内に頼朝の歯と鬢の落毛を納めたという。聖観音と梵天・帝釈天は運慶らの作と伝える。惣持禅院については滝山寺文書に、

<資料は省略されています>

とある。寄進者は坂上維伴と太平左衛門尉惟行で、ともに足利氏執事高氏の庶流であり、阿智波郷(現阿知和町)において田八反を寄進した。頼朝の妻北条政子の妹を母とする足利義氏は、承久の乱後額田郡地頭職が与えられた(倉持文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「滝山寺」の解説

滝山(たきさん)寺

愛知県岡崎市にある天台宗の寺院。吉祥陀羅尼山薬樹王院と号す。本尊は薬師如来。縁起では役小角(えんのおづぬ)の開創と伝わる。山門、本殿、運慶・湛慶作の三尊像などは国の重要文化財に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の滝山寺の言及

【鬼】より

…追儺式の鬼追いの儀式は修正会(しゆしようえ)にとり入れられ,竜天(りようてん),毘沙門天とともに舞を舞い,竜天や参詣人に追いはらわれることで悪魔ばらいが完了し,吉祥を生ずる行事となっている。現在,愛知県豊橋市の神明社や岡崎市の滝山(たきさん)寺などに伝承されている鬼祭は,追儺の形式をとった修正会の行事と田楽・田遊(たあそび)などの行事が結びついたものである。滝山寺の旧正月7日の鬼祭は,火祭とも呼ばれ,田遊の後に鬼の面をかぶった3人(祖父面・祖母面・孫鬼)が,数十人の松明を持った若者と共に本殿の縁側を踊りまわる。…

※「滝山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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