漢詩文(読み)かんしぶん

改訂新版 世界大百科事典 「漢詩文」の意味・わかりやすい解説

漢詩文 (かんしぶん)

漢籍の日本への伝来は,記紀によれば応神朝とされ,ほぼ4,5世紀ごろアジア大陸の文物や中国の古典や小学書が将来された。ただし漢字などはそれ以前にある程度伝えられていたかと思われる。以後帰化人の知識層に導かれて日本人の漢文学習が開始されたが,漢文は本来は日本語とはまったく構造の異なった言語であり,それを読み書きし,自由に駆使するには大きな困難と多くの年月を要した。

6世紀の仏教経典の渡来は,漢字漢文の習熟の必要をいっそう高めるものであった。また,はやくから金石文などに初期漢文の断片が残された。聖徳太子の書いたと伝えられる〈憲法十七条〉や《三経義疏》の述作,諸家の家譜や帝紀・国史の編纂などは,推古朝における漢文の飛躍的な発達をうかがわせる。ついで天智朝では,唐の律令制を規範として諸制度の整備を行い,天皇以下唐風を奨励したため,大陸文化が重要視され,実用としてだけでなく漢詩もこのごろはじめて創作された。

 奈良時代に入ると,中国文化尊重の気風はいよいよ高まり,大陸との交渉が頻繁になるなかで,その使節の送迎に際しても,公的私的な宴会などに際して侍宴応教の詩賦の制作が行われた。藤原宇合(うまかい)の詩集2巻,石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)の《銜悲藻(がんぴそう)》3巻,《柘枝伝(つみのえでん)》や浦島伝説を扱った作品などはこの時代のものであるが,いずれも現伝しない。また,《万葉集》の作品の内容や表記にも漢籍の影響が色濃く見られ,漢詩文の作品も存在する。751年(天平勝宝3)には現存最古の漢詩集《懐風藻》が編纂され,唐風模倣のあとは否みがたいが,漢文学は律令制下の官人必須の教養として,重要になっていった。

 平安時代の漢詩文の展開は,3期に分けられる。前期の形成期はさらに9世紀前半の弘仁~承和(810-848)ごろの形成興隆期と,9世紀後半の貞観~寛平(859-898)ごろの円熟黄金期とに分けられる。中期は,10世紀前半の延喜~天暦(901-957)から11世紀初頭の長保・寛弘(999-1012)にかけてで,漢文学の中興から分化に向かう時期である。後期は,11世紀後半の天喜・康平(1053-65)から寛治以後の院政期を経て,12世紀後半の治承~寿永(1177-85)の終末にいたる斜陽期である。前期の形成興隆期は,中国大陸の盛唐から中唐にあたり,日本ではまれにみる漢詩文興隆のエネルギーにみち溢れた。《凌雲集》《文華秀麗集》《経国集》という勅撰3漢詩集が成立し,空海らの入唐僧団の漢詩文など文学的生命にみちている。

 前期の円熟黄金期は,菅原是善,都良香,島田忠臣,菅原道真ら律令官人が活躍し,ようやく日本の文学としてのアイデンティティにめざめ,多くの作品を残している。詩形は五言よりも七言が多くなり,絶句よりも律詩が多く,しなやかなリズムが生まれてくる。

 内容は,前代が大陸文学の模倣に終始していたのに対し,日本における人間と自然を民族的感覚で表現しようとするものが見られるに至る。散文では,賦・記・序・策・奏状・願文が重要である。次に,遣唐使が廃止された中期になると,国風文化勃興のきざしがあらわれ仮名文学が盛んになる。しかし文学の主流は大江匡房の《続本朝往生伝》に見られるごとく漢文学で,大江維時撰の《千載佳句》,紀斉名(ただな)撰の《扶桑集》,高階積善撰の《本朝麗藻》,大江匡衡の《江吏部集》,藤原公任撰の《和漢朗詠集》などが今日に伝えられ生彩を放つ。藤原明衡編の《本朝文粋》はこの期の作品を多く収めていて,珍重すべき漢詩文芸の宝庫である。このころになると,有力な詩人たちの層も下級貴族層に移り,漢詩文を支えてきた儒学者たちは大江氏,菅原氏を中心に門閥を形成するようになる。次に,後期の作品としては,三善為康の《朝野群載》や,《九条家本無名漢詩集》《本朝無題詩》《本朝続文粋》などがある。この期の代表的詩人に藤原明衡がいて,《新猿楽記》の傑作をのこし,また大江匡房がいて,《江帥(ごうのそつ)集》《江都督納言願文集(ごうととくどうげんがんもんしゆう)》などをのこした。匡房には談話の筆録《江談(ごうだん)》(《江談抄》)もあり,また庶民生活に材を得た《傀儡子記(くぐつき)》《遊女記》《狐媚記》《洛陽田楽記》も著した。このような作品の存在は,漢文が日本文学のうち男性の文学の重要な文体として,主流の地位を獲得したことを示すもので,説話文学や戦記物語の文章を生み出す母胎ともなった。また女流文学の形成にも大きな影響を与え,ひいては中世的文学の和漢混淆文体をひきおこす契機となった。

 その後の漢詩文の歴史を以下に略述するが,詳しくは各時期の記述を参照されたい。中世の漢詩文は,13~15世紀の五山禅林文芸の漢詩文の盛行にみられる。元,明より日本に帰化した中国禅僧詩人や,日本より彼の地に留学した禅僧詩人が宗教的感動を漢詩文に盛った。しかし室町後期になるとしだいに退廃した。近世漢文学は17~18世紀に上方と江戸を中心として盛り上がる。これは長崎を通じて,唐通事や黄檗(おうばく)僧たちの媒介によって,中国明末・清初の白話演義などの講釈文芸が流入し,江戸漢文学の百花斉放を促し,幕末にいたる。近代に入り明治前半期はまた日本漢文学の歴史の上で,一つの注意すべき時期である。幕末より明治20-30年にかけ,漢詩文の教養を身につけた若いエリートたちが,ヨーロッパ,アメリカに留学し近代資本主義科学文明の西欧文化にふれた感動を漢詩に託してうたいあげ,そこから森鷗外や夏目漱石も出てくるのである。
執筆者:

中世の漢文学の主流は,何といっても五山禅僧の作品である。鎌倉時代の作者には虎関師錬(こかんしれん),雪村友梅(せつそんゆうばい),中巌円月(ちゆうがんえんげつ)がある。虎関師錬は一山一寧(いつさんいちねい)より学んだので,やや古風な作風を有するが,雪村は在元22年の長きにわたり,中国人の文脈句法を体得した人であり,中巌円月は在元の期間は雪村友梅ほど長くないが,その文脈句法の体得は雪村以上で,とくに四六文の学習に力を注いだ人である。

 南北朝に入ってからは,義堂周信(ぎどうしゆうしん),絶海中津(ぜつかいちゆうしん),古剣妙快(こけんみようかい),中恕如心(ちゆうじよじよしん)などが出て,このうち義堂周信は入元しなかったがその作品の骨格はまったく中国人と同等なものを作りえて,中国人からさえ,その作品は中国人のものと誤られたほどであった。絶海中津は明の時代に入ってから渡海し,元代の人が偈頌(げじゆ)といって仏教臭のある詩体を好んで作ったのに対して,まったく士大夫風の俗体の詩文をよくし,また中巌円月についで,四六文の作成にいそしんだ。当時,中国には笑隠大訢(しよういんだいきん)という禅僧が出て,禅四六の作法を一定し,これを〈蒲室疏法(ほしつそほう)〉と称したが,中巌円月,絶海中津はこの法を体得した。またこの時代には,清拙正澄(せいせつしようちよう),明極楚俊(みんきそしゆん),竺仙梵僊(じくせんぼんせん)など,中国僧の来朝があり,これらの人の作品は,正真正銘の“漢”文だったので,五山文学中とくに光彩を放った。その後義堂周信,絶海中津も和様に流れることきわめて少なかった。

 室町時代に入っても惟肖得巌(いしようとくがん),天章澄彧(てんしようちよういく)などは漢風の作品を生まんと努めたし,和様が加わっても,骨格が漢文本来の文脈をくずさなかった作者に,瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう),横川景三(おうせんけいざん)があった。室町時代後半には五山僧の文学創作欲は衰え,代わって中国儒典の研究熱をたかめ,この方面の学者,たとえば桂庵玄樹(けいあんげんじゆ),文之玄昌(ぶんしげんしよう)(南浦)などが,かたわら詩文を製した。このような流れにつづいて,江戸時代の儒学は多く五山より発生したので,江戸時代儒者の作る漢詩文は,その初期の人たる藤原惺窩(相国寺の禅僧文華宗蕣),林羅山(建仁寺に学んだ)などの作品にみられるように,五山文学そのままの趣があった。

 中世には五山文学以外に搢紳(しんしん)公卿の作品もあった。これは平安朝以来の伝統を守って,博士家や外記・内記の職に在った人が,公文書の作成のために漢文学を学んでいたものである。そのもっとも顕れた人には東坊城(菅原)秀長があり,その文集を《迎陽(こうよう)文集》(《迎陽記》)という。また《本朝文粋》にならって《本朝文集》も編せられ,公家の作品が集められた。しかし公家の文章家は多かれ少なかれ,同時代の五山文筆僧と交流し,その作風に影響されている。
執筆者:

近世初期,漢詩文を制作するうえで必要とされる漢語その他中国文化万般にわたる知識をもっとも豊富に有していたのは儒者であったから,近世における漢詩文の歴史は,儒者の余技という形で出発した。すなわち近世最初の儒者である林羅山,松永尺五(せきご),堀杏庵,那波活所(なわかつしよ)などが,同時に近世最初の漢詩人でもあった。したがってその文学活動は,彼らの奉じた朱子学の文学観の影響を強く受け,知識人の重んずべきは儒学であって,詩文は第二義の営みにすぎないという消極的な位置づけと,詩文は道徳に資するものでなければならないという道学主義との拘束のもとにあった。その一方で,新文化発足期の啓蒙主義の風潮の表れとして,中国の詩集・詩論の和刻や邦人学者の手になる作詩入門書の出版が相次ぎ,漢詩文の趣味は徐々に広く普及していった。この時期,儒学と無縁の立場で自由に詩を作った人に石川丈山元政げんせい)があって,やがてきたる詩文自立の動きの先駆となっている。

 元禄期(1688-1704),京都に伊藤仁斎が出現して,朱子学の道学主義に反対する儒学説(仁斎学)を唱える。寛容な人間観に基づいて人欲を肯定するその思想においては,文学は人情の真実の表現という積極的な役割をになうにいたる。この文学観の影響のもとに,仁斎の学塾古義堂の門人たちやその周辺の人々,仁斎の長子伊藤東涯,伊藤坦庵,宇都宮遯庵(とんあん),鳥山芝軒(しけん)などが,前代よりも自由な詩文活動を展開した。

 享保期(1716-36)に入って,江戸の荻生徂徠が仁斎学よりもさらに徹底した反朱子学の儒学説(徂徠学)を唱える。徂徠学では,儒学で追求する道とは天下を治める政治の道であって,道徳にはかかわらないと説いたため,人の内面は完全に儒学の拘束から解放されることになった。これ以後,詩文は素材と表現において大幅な自由を獲得し,文学として自立するにいたる。徂徠門下からは服部南郭,高野蘭亭などの専門詩人が出て,詩文自立の風潮を定着させた。徂徠一門は,具体的な作風としては,秦・漢の文,盛唐の詩を詩文の絶頂と考え,それを手本にする擬古主義を主張したので,古文辞派と称される。盛唐詩の光華雄渾な詩風への憧れには浪漫主義という文学的な意義があったのであるが,天明(1781-89)ごろになると,古文辞派の擬古主義を否定して,もっと近世人の生活感情に即した詩情,表現を求める動きが詩壇に出てきた。理論面の代表者は山本北山で,擬古主義を模擬剽窃(ひようせつ)として激しく攻撃した。実作面を代表するのが,市河寛斎とその門人たち,大窪詩仏柏木如亭などであって,彼らは日常的な素材,詩情に富む宋詩の影響のもとに,近世人の生活感情を的確にとらえた新しい詩風を示した。ここに,漢詩文は日本の風土に完全に根づき,近世文学の一分野として定着した。以後,19世紀に入り文化・文政・天保と,漢詩文の趣味は広く浸透し,菅茶山頼山陽広瀬淡窓梁川星巌,梅辻春樵(うめつじしゆんしよう)など,すぐれた詩人が輩出して,西欧の影響を受けた文学にとってかわられる明治中期までの間,日本文学史上最高の漢詩文隆盛期を現出したのである。
執筆者:

明治は漢学愛好の時代であり,漢詩文は江戸期に劣らず隆盛であった。漢詩ではまず小野湖山,岡本黄石,大沼枕山(ちんざん)らが現れ,陸游,蘇東坡(蘇軾(そしよく)),黄山谷(黄庭堅)らの宋詩を重んじて詩壇を指導した。ついで現れた森春濤(しゆんとう)・森槐南(かいなん)父子は婦女子の恋愛の感情を詠んだ香奩(こうれん)体の詩や,袁枚(えんばい),趙翼,張船山(張問陶),王漁洋(王士禎)らの清詩をさかんに鼓吹し,本田種竹らとともに明治詩壇(ことに後期)における清詩の流行をもたらした。槐南の門からは野口寧斎が出て詩名をうたわれたが,当時これらの人々と独立して活躍していたのが成島柳北,長三洲らである。また1894年に夭折した中野逍遥も強烈な恋愛感情を漢詩に託した詩人として注目される。森春濤・槐南らの清詩派に対抗し,漢・魏の古体詩を主唱して現れたのは副島種臣(そえじまたねおみ)(蒼海)であり,国分青厓,桂湖村,石田東陵らはこれに和してしだいに勢力を拡大していった。詩人たちの集りである吟社には下谷吟社(大沼枕山),茉莉吟社(まつりぎんしや)(森春濤),麴坊(こうじまち)吟社(岡本黄石)などがあり,それぞれに雑誌を発行するなどして世の好みに投じた。文章界にも人材が多く,大槻盤渓,重野安繹(成斎),中村正直(敬宇),三島中洲,依田学海,信夫恕軒らが,すぐれた作品を残している。これらの人々が互いの文章を品評するために作った文会には旧雨社(藤野海南),麗沢社(重野成斎),廻潤社(川田甕江(おうこう))などがある。詩文の雑誌として有名なものには《新文詩》(1875年7月~83年12月),《明治詩文》,《花月新誌》(1877年1月~84年10月)などがあるほか,当時の大新聞には,おおむね文苑や詩林などの欄があり,著名な作家を選者にえらんで一般の投稿を歓迎していた。また,こうした動向と並行して,正岡子規,田山花袋,夏目漱石,森鷗外なども漢詩を作っていた。しかしこうした漢詩文の盛行も明治の末年,大家が相次いで世を去り,政府の欧化主義教育の普及による人心の変化が生じたりして,にわかに衰えていった。大正・昭和における漢詩壇の中心は国分青厓であり,作家には長尾雨山,田辺碧堂,松平天行,土屋竹雨,服部担風らがあり,雑誌にはなお,《東華》《昭和詩文》などがあった。

 明治以後の漢語や漢文脈の推移に眼を転ずると,まず挙げられるのが明治初期の一般の文章界における漢語のはんらんである。当時作られた漢語のうちには〈勉強〉〈規則〉〈関係〉など,今日もなお日常語として残っているものがある。官庁の布達や新聞の用語にも〈文明開化〉〈自由平等〉〈因循姑息〉など漢語による成句が多く見られる。また西洋語の訳語にも〈社会〉〈権利〉〈哲学〉〈普遍〉など漢語による造語がいちじるしく,これらのうちには,のちに中国語に逆輸入されたものもある。文体,文脈では,初期には漢語のはんらんとあいまって漢文直訳体の文章が栄えた。とくに政治論者の論説や書簡などはこの文体であり,政府の布達や法令の類もこの形式で発せられていた。しかしやがて翻訳文体が現れるとともに,漢文直訳欧化体という新文体が生まれ,それも明治30年代になると,当時一般化してきた,いわゆる普通文のなかに吸収されていった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「漢詩文」の意味・わかりやすい解説

漢詩文
かんしぶん

中国古来の詩文,また日本人がそれにならって漢字のみを用いてつくった詩文。初め大陸からの渡来人が書き,やがて在来の日本人もそれを範としたとみられる。推古4(596)年の伊予道後温湯碑文,推古12(604)年の十七条憲法が最初期の漢文で,奈良時代には漢詩集『懐風藻』が編纂された。平安時代前期にも勅撰漢詩集が 3集つくられ,作者には空海都良香菅原道真らがいた。中期には『本朝文粋』などが編まれ,中国の『白氏文集』『文選』が大きな影響を与えた。鎌倉時代はやや衰えたが,末期から室町時代にかけて五山禅僧によって五山文学がつくられた。江戸時代は儒学(→儒教)の全盛期で,前期には伊藤仁斎の古学派,荻生徂徠の古文辞学派,山崎闇斎の崎門学派(きもんがくは),中江藤樹熊沢蕃山らの陽明学派などがあり,中期には服部南郭菅茶山,後期には頼山陽斎藤拙堂らの優れた作家が出た。明治になると西洋の文学に圧倒され,衰退した。

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