瀬戸市(読み)セトシ

デジタル大辞泉 「瀬戸市」の意味・読み・例文・類語

せと‐し【瀬戸市】

瀬戸

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日本歴史地名大系 「瀬戸市」の解説

瀬戸市
せとし

面積:一一〇・三四平方キロ

県の中央北部、名古屋市の北東、尾張の東北端に位置し、北を岐阜県、東を西加茂郡藤岡ふじおか町、南を豊田市・愛知郡長久手ながくて町、西を尾張旭市、西北を名古屋市守山もりやま区・春日井市と接する。市の中心、旧瀬戸村は東・南・北の三方を丘陵に囲まれた標高一〇〇メートル前後の盆地状の所に立地し、中央を東から西へ瀬戸川が流れる。東南の尾三国境に猿投さなげ(六三八・三メートル)が、東北の尾三濃国境に三国みくに(七〇一メートル)がそびえ、その次に北部が高く標高二〇〇―三〇〇メートル、西南部が最も低地で標高六〇―一〇〇メートル。

応永六年(一三九九)の尾張国国衙正税未進注文(醍醐寺文書)に「参百文 瀬戸未進雲門庵知行」とあるのが初見である。瀬戸地域は古代以降、山田やまだ郡に属していたが、中世末に山田郡は廃され、北半は春部かすがべ(春日井郡)に、南半は愛知郡に分割された。この時、山口やまぐち菱野ひしの本地ほんじ(のちの幡山村)の地区は愛知郡となり、それ以外は春日井郡となった。明治一三年(一八八〇)春日井郡が東西二郡に分割された時は東春日井郡に属した。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は少なく、わずかに東北方の鳥原とりはら川流域に早期・中期、南方の山口川流域に後期・晩期の遺跡がみられる。弥生時代の遺跡もまた少ない。古墳は品野しなの川・瀬戸川・山口川の各流域に点々と営まれたが、いずれも後期の円墳で、小規模な群集墳を形成する地区もある。

〔古代〕

山口地区と水野みずの地区で条里制の遺構が確認されているが、現瀬戸地域の地名の文献上の所見は、山口郷が平城宮出土木簡と「和名抄」一〇郷のうちにみえるほかは、鎌倉時代末期以降でないとその名をみることができない。式内社として、深川ふかがわ神社(現深川町)こがね神社(現小金町)尾張戸おわりべ神社(現十軒町、名古屋市守山区)大目おおめ神社(現巡間町)が比定されているが、根拠薄弱のものも含まれている。

〔中世〕

正安(一二九九―一三〇二)頃の文書に水野上みずのかみ御厨が熱田社領としてみえ(猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書)飽津あかづ(赤津)保は尾張国国衙領であったが、文和二年(一三五三)頃、山城国の醍醐だいご三宝さんぼう院門跡領となっている(醍醐寺文書)科野しなの(品野)郷は明徳二年(一三九一)の醍醐寺文書に熱田座主領としてみえる。

真宗高田派の万徳まんとく寺が正応元年(一二八八)に三河から飽津へ移転し、臨済宗妙心寺派の定光じようこう(現定光寺町)が暦応三年(一三四〇)に、曹洞宗雲興うんこう(現白坂町)が永享二年(一四三〇)に開創され、今日に至るまで古刹としての面目を保っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瀬戸市」の意味・わかりやすい解説

瀬戸〔市〕
せと

愛知県北西部,美濃三河高原の西端にある市。1929年市制。1951年水野村,1955年幡山村,1959年品野町を編入。古来陶業で知られている。矢田川支流の瀬戸川に沿い,新第三紀層からなる南東部山地の下部に木節粘土蛙目粘土を含む瀬戸陶土層が分布する。安貞2(1228)年加藤四郎左衛門景正が宋の窯業技術を学んで帰国し,14年後この地に窯業の基礎を築いたといわれている。以後尾張藩の保護を受け発展。一方磁器は,文化4(1807)年加藤民吉が天草の製法を伝えたのが始まり。ノベルティ(商標入りの雑貨,小物など),和洋食器,ガラス,陶芸品を産し,海外にも輸出される。住宅団地も建設されて,名古屋市への通勤者が多い。北部および東部の山地とこれを刻む渓谷を中心に,愛知高原国定公園に属する。東海道自然歩道が通り,定光寺,岩屋堂の景勝地がある。小長曾陶器窯跡は国指定の史跡。面積 111.40km2。人口 12万7792(2020)。

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