無量光寺(読み)むりようこうじ

日本歴史地名大系 「無量光寺」の解説

無量光寺
むりようこうじ

[現在地名]相模原市当麻

国道一二九号に沿う東側、亀形峰といわれる亀甲形の丘にあり、西を相模川が流れる。当麻山金光院と号し、時宗。本尊一遍上人像。嘉元二年(一三〇四)他阿真教の創建。天保一一年(一八四〇)の遊行藤沢両上人御霊簿(藤沢市清浄光寺宝物館蔵)に遊行を三祖智徳に譲り当麻山に独住とある。また「麻山集」には嘉元元年二月、他阿真教が当麻金光こんこう院を無量光寺と改め独住したとも伝える。「麻山集」は、当麻山が中世以来頻発した火災によって多くの史料を焼失したため、三五世慈眼が旧記や伝書を取集めて一巻にしておいたものを、三八世是名(狂風散人廬峯)が追補して、元禄四年(一六九一)三月にまとめた史料である。時宗の開祖一遍が巡錫した地とも伝える。南北朝時代に下総の千葉貞胤が遊行七世託何に帰依して時宗に改宗したといい、千葉家菩提所海隣かいりん(現千葉県佐倉市)は真教によって真言宗から時宗に改宗したと伝え、以後千葉氏と関係の深い海隣寺・来迎らいごう寺から当寺を継いだ歴代住職は多い。

無量光寺
むりようこうじ

[現在地名]交野市私部五丁目

浄土真宗本願寺派、山号無光山、本尊阿弥陀如来。寺蔵の記録によると室町時代初期、私部の馬場裏きさべのばばうらに「奥小路の御堂」とよばれ、本堂正面に無光寺、山門に無量光寺の勅額を掲げた天台宗尼寺があったが、嘉吉の乱で播磨へ引揚げる赤松氏一族が逃込み、幕府軍に焼かれた。廃墟となっていたのを明応三年(一四九四)星野親忠が再興、子息能末(法名了道)が本願寺蓮如に帰依して念仏道場とし、浄土真宗無量光寺一世となる。天文元年(一五三二)山科本願寺より石山いしやま別院(跡地は現東区)に宗祖親鸞影像を移す際、二世覚円が随伴し影像を一時当寺に安置したことなどから、のち証如染筆寺号「無量光寺」を下付された。

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改訂新版 世界大百科事典 「無量光寺」の意味・わかりやすい解説

無量光寺 (むりょうこうじ)

神奈川県相模原市南区にある時宗の寺。当麻山金光院と号する。本尊一遍上人像。1304年(嘉元2)遊行上人第2世他阿真教の創建と伝えるが,03年真教が金光院を無量光寺と改め独住したともいう。当寺は相模と甲斐・武蔵を結ぶ交通の要衝に位置し,時宗の開祖一遍もこの地を巡錫したと伝える。真教の法弟呑海が,遊行上人の後継者争いから藤沢に清浄光寺(遊行寺)を建てると,両寺で長い間確執が続いた。江戸時代の寺領30石。浄土宗寺院より入山することも多く,歴代住職には阿弥号のほか浄土宗鎮西派の蓮社号,誉号を併称する者が多い。創建以来たびたび火災にあい,現在の諸堂宇は明治以後の再建である。
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事典・日本の観光資源 「無量光寺」の解説

無量光寺

(神奈川県相模原市)
かながわの景勝50選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の無量光寺の言及

【時宗】より

…教団の構成員を時衆といい,男は阿弥陀仏号(略して阿弥号,阿号)を名のり,女は一房号または仏房号を称した。 真教は相模国の当麻(たいま)道場(無量光寺)をはじめ100余の時衆道場を建立したが,遊行の立場を説き続けた。しかし南北朝時代に入ると,定住の僧が多くなり,教団の組織化が進んだ。…

※「無量光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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