熱河作戦(読み)ねっかさくせん

改訂新版 世界大百科事典 「熱河作戦」の意味・わかりやすい解説

熱河作戦 (ねっかさくせん)

日中戦争時における日本軍(関東軍)の中国熱河省河北省への侵攻作戦。熱河省は地理的には内モンゴルの一部であるが,政治的には奉天軍閥の支配下に東三省(奉天,吉林,黒竜江の3省)に連なっていた。1932年3月満州国を樹立した関東軍は熱河省もその領域であると宣言したが,省主席湯玉麟はあいまいな態度をとった。関東軍は北満作戦を一段落させると,33年1月山海関で日中両軍の衝突が発生したのを機に,2月熱河制圧に着手し,第6・第8師団,混成第14・第33旅団その他の兵力を動員して熱河省へ侵攻,3月4日承徳を占領したうえ,10日前後に万里長城の線に達した。さらに中国が中央軍主力約20個師団を集結してはげしく反撃すると,武藤信義関東軍司令官は27日河北省東北部攻撃を命じ,日本軍は4月10日長城線を突破して関内(長城の内側)へ侵攻した。おりから日本の国際連盟脱退もあり,国際関係の悪化を憂慮した天皇,軍中央の指示で,日本軍は19日いったん長城線へ帰還したが,5月8日ふたたび関内作戦を遂行し,22~23日には北平(北京)から30~50kmにまで迫った。中国側は停戦を求め,30~31日岡村寧次関東軍参謀副長と熊斌国民政府軍事委員会北平分会総参議とを代表として,塘沽(タンクー)で停戦交渉がおこなわれ,31日停戦協定が成立した。これにより柳条湖事件以来の軍事行動は一応終結したが,河北省東部に非武装地帯が設けられ,中国は熱河省を含む満州国の存在事実上承認させられるとともに,日本に華北分離工作足場をあたえた。
華北工作
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熱河作戦」の意味・わかりやすい解説

熱河作戦
ねっかさくせん

1933年(昭和8)日本軍の中国熱河省、河北省に対する軍事侵略。32年3月「満州国」の設立後、日本軍はその領域とされた熱河省地方を制圧する準備を進め、33年1月山海関(さんかいかん)を占領し、2月から熱河作戦を開始、承徳(しょうとく)、古北口(こほくこう)、喜峰口(きほうこう)を占領した。日本軍の熱河作戦が国際連盟をさらに刺激することを憂慮する政府部内の反発を招いたが、連盟脱退をも辞さない軍部は作戦を強行し、4月には長城(ちょうじょう)線を越えて軍事侵略を河北省に拡大した。これに対して対日妥協政策をとる中国政府は日本との停戦を求め、5月31日塘沽(タンクー)協定を結び、日本側の条件を受け入れ、日本の軍事侵略の結果である「満州国」を黙認した。

[鈴木隆史]

『歴史学研究会編『太平洋戦争史2』(1972・青木書店)』

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世界大百科事典(旧版)内の熱河作戦の言及

【川島芳子】より

…32年の上海事変では活発な諜報活動で国民政府の秘密情報をもたらし,翌年,村松梢風のモデル小説〈《男装の麗人》〉が評判となって,〈東洋のジャンヌ・ダルク〉〈東洋のマタ・ハリ〉などのイメージが広まった。1時〈満州国〉女官長を務め,また熱河作戦では〈安国軍司令〉として部隊を率いて活動し,関東軍の宣伝材料に利用された。日本の敗戦後,45年秋,北平(北京)で漢奸として逮捕され,中華民国河北高等法院での裁判を経て,48年春に死刑。…

【満州事変】より

…3月27日日本は連盟に脱退を通告し,ワシントン体制から離脱する方向へ向かった。 この間,1933年1月関東軍は〈満州国〉の領域と主張する内蒙古の熱河省に侵攻し,4月以降には万里長城を越えて関内の河北省にも攻め込んだ(熱河作戦)。5月31日塘沽停戦協定が調印され,柳条湖事件以来の軍事的膨張はいちおう終結し,関東軍は長城線へ撤収した。…

※「熱河作戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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