片岡健吉(読み)カタオカケンキチ

デジタル大辞泉 「片岡健吉」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐けんきち〔かたをか‐〕【片岡健吉】

[1844~1903]政治家。高知の生まれ。立志社をつくり、自由民権運動を推進。民撰議院設立建白書や国会開設請願書提出の中心になった。

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精選版 日本国語大辞典 「片岡健吉」の意味・読み・例文・類語

かたおか‐けんきち【片岡健吉】

政治家。土佐藩高知県出身。明治政府の海軍にはいったが、征韓論を唱えて下野。民選議院設立建白に加わった。立志社社長となり、自由民権運動の先頭に立つ。自由党憲政党立憲政友会所属。天保一四~明治三六年(一八四三‐一九〇三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「片岡健吉」の意味・わかりやすい解説

片岡健吉
かたおかけんきち
(1843―1903)

自由民権家。天保(てんぽう)14年12月26日、土佐国中島町(高知市中島町)に生まれる。父は土佐藩士片岡俊平、母は渋谷氏。家格は馬廻(うままわり)250石の上級武士。戊辰(ぼしん)戦争に際し迅衝隊(じんしょうたい)右半大隊(みぎはんだいたい)司令として会津城攻略に参加。戦功により中老職。朝命による海外視察のため1871年(明治4)5月6日出発、アメリカを経てロンドンに滞在。1年10か月後帰国し海軍中佐。征韓論に敗れて下野した板垣退助(たいすけ)と行動をともにし高知に帰る。74年海軍中佐の辞表を提出するとともに、立志社(りっししゃ)の創立を推進し、翌年4月の社長制設置とともに社長に就任。同年8月24日から翌年1月まで高知県七等出仕。77年6月9日に国会開設を求める立志社建白書を提出して却下になる。同年8月18日西郷隆盛(たかもり)の挙兵に関し逮捕され1年5か月入獄。出獄後、高知県会議員に当選し初代議長。80年4月国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される。85年5月15日キリスト教受洗。87年12月26日公布・施行された保安条例による東京からの退去を拒否したため軽禁錮2年6か月。第1回衆議院議員総選挙以降、連続8回当選。1902年(明治35)3月27日同志社社長。衆議院議長在任中の明治36年10月31日病死。正四位勲三等、旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)。墓は高知市秦泉寺山(じんぜんじやま)。

[外崎光廣]

『川田瑞穂著『片岡健吉先生伝』(1939・立命館出版部/復刻版・1978・湖北社)』『外崎光廣編『片岡健吉日記』(1974・高知市民図書館)』

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朝日日本歴史人物事典 「片岡健吉」の解説

片岡健吉

没年:明治36.10.31(1903)
生年:天保14.12.26(1844.2.14)
幕末の土佐(高知)藩士。自由民権家,政党政治家。土佐藩士片岡俊平,幸夫婦の長男。幼名寅五郎,諱は益光,通称健吉。文久1(1863)年,藩主山内豊範の小姓,3年22歳で郡奉行になる。慶応4(1868)年2月,土佐藩迅衝隊左半大隊司令兼大軍監として戊辰戦争に出征,北関東,会津の戦線に軍功あり,中老に昇任。明治4(1871)年2月高知藩権大参事。欧州軍事視察(1871~73)帰国後,6年10月海軍中佐を拝命したが,征韓論政変で板垣退助に従い帰郷,立志社創建に尽力,社長に推されて民権運動の指導に当たった。西南戦争の渦中,10年6月には京都行在所に国会開設願望の建白書を奉呈したが退けられ,8月立志社挙兵計画の嫌疑で林有造らと連座投獄され,11年8月禁獄100日の判決を受けた。出獄後は愛国社の再興に当たり,国会開設請願運動に取り組み,13年4月河野広中と共に国会期成同盟の代表に選ばれ,建白書を提出したが退けられた。14年自由党創設およびその後には板垣を補佐して重要な働きをし,衆望を集めた。20年の三大事件建白書運動ではその中心にたって動き,建白書を元老院に出して退けられ,保安条例の東京退去命令に抗して軽禁固6カ月を被った。22年帝国憲法発布の大赦で出獄,23年の第1回総選挙に当選,第2回総選挙では政府の大干渉で苦戦したが,以来衆院議員8期連続当選,第12議会以降,衆院議長として没年に至った。<著作>『片岡健吉日記』<参考文献>川田瑞穂『片岡健吉先生伝』(復刻,1978)

(福地惇)

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改訂新版 世界大百科事典 「片岡健吉」の意味・わかりやすい解説

片岡健吉 (かたおかけんきち)
生没年:1843-1903(天保14-明治36)

自由民権家,政治家。土佐藩士出身。戊辰戦争に参加。1871-72年(明治4-5)藩より選ばれて欧米各国を視察し,帰国後海軍中佐となったが,征韓論政変で74年辞職し帰郷。立志社の設立に参加して以後,自由民権運動の推進につとめ,立志社社長となって77年国会開設建白書を政府に提出。さらに80年には,国会期成同盟の代表として国会開設請願書を提出した。81年自由党の結成に参加。87年には三大事件建白運動に参画。第1回総選挙以来衆議院議員に連続当選し,副議長,議長をつとめた。1900年立憲政友会の結成に参加したが,のち脱党。温厚篤実な人柄が信望をあつめた。またキリスト教を信仰して,1885年受洗,同志社社長にも推された。
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百科事典マイペディア 「片岡健吉」の意味・わかりやすい解説

片岡健吉【かたおかけんきち】

明治の政治家。土佐藩出身。戊辰戦争に参加後,軍事研究のため渡欧,帰国後海軍に仕官したが,征韓論争で下野,立志社設立に参画し,以後板垣退助と自由民権運動を推進,1877年立志社建白を,1888年には国会期成同盟の総代として請願書を提出した。のち衆議院議員として活躍。
→関連項目三大事件建白運動保安条例民撰議院設立建白

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「片岡健吉」の意味・わかりやすい解説

片岡健吉
かたおかけんきち

[生]天保14(1843).12.16. 土佐,高知
[没]1903.10.31. 高知
政治家。明治1 (1868) 年奥羽征討の軍に参加したが,同4年欧米視察におもむき,1873年帰国。 74年立志社を代表して自由民権運動に参画,次第にその指導的地位を固める。彼の特徴は自由民権運動の精神的支援をキリスト教に求めたことで,85年長老派の宣教師ナックスより受洗,同時に設立された高知教会を背景に活動。 87年保安条例によって退去を命じられたが,従わなかったため一時投獄された。 89年衆議院議員に当選,自由党員として活動,同議長にも選ばれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「片岡健吉」の解説

片岡健吉 かたおか-けんきち

1844*-1903 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)14年12月26日生まれ。もと土佐高知藩士。海軍中佐となったが,明治7年征韓論政変で帰郷。立志社の創立に参加して自由民権運動を推進,同社社長に就任し,10年国会開設建白書を提出した。13年国会期成同盟の代表として請願書を提出。自由党結成にくわわり,23年の第1回総選挙以来衆議院議員に連続8回当選。明治36年10月31日死去。61歳。名は益光。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「片岡健吉」の解説

片岡健吉
かたおかけんきち

1843.12.26~1903.10.31

明治期の民権家・政党政治家。土佐国生れ。高知藩士として戊辰(ぼしん)戦争に従軍。1871~73年(明治4~6)欧米視察。帰国後立志社創設に参画。西南戦争時には林有造らの挙兵計画に連坐して入獄。81年自由党結党に参加。第1回総選挙から衆議院議員に8回連続当選。自由党から立憲政友会を通じて土佐派領袖の1人として活躍し,衆議院議長などを務める。クリスチャンであった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「片岡健吉」の解説

片岡健吉
かたおかけんきち

1843〜1903
明治時代の政治家
土佐藩出身。征韓論に敗れて下野。愛国公党・立志社の創立に参加し,1880年国会期成同盟の総代として請願書を提出。自由党結成(1881)後は土佐派の中心として活躍し衆議院議員に8回連続当選。自由党・憲政党・立憲政友会に所属し衆議院議長もつとめた。のち基督教青年会理事長・同志社社長兼校長などを歴任した。

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世界大百科事典(旧版)内の片岡健吉の言及

【国会期成同盟】より

…1880年3月大阪で開かれた愛国社第4回大会には,愛国社加盟の各結社のほか多数の全国有志が参加して,組織を国会期成同盟と称することや請願書の提出を議決し,国会期成同盟規約を決定した。翌4月,片岡健吉,河野広中が全国2府22県約9万7000名の請願委託者を代表して〈国会を開設するの允可を上願する書〉を提出した。この請願書は,120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の中でも,9項目の請願理由を列挙した詳細なもので,その根拠が,天賦の人権,五ヵ条の誓文の国是,兵役ならびに地租負担者の権利,内政および財政の混乱,国権回復など広範にわたっていたことを示している。…

【立志社】より

…自由民権運動推進の中心となった代表的政社。1874年4月,高知に帰郷した板垣退助が片岡健吉,林有造らと結成した。天賦人権を宣言して〈人民は国の本〉であると主張,〈人民の知識を開達し,気風を養成し,福祉を上進し,自由を進する〉ことを目的に掲げた。…

※「片岡健吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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