片岡球子(読み)かたおかたまこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「片岡球子」の意味・わかりやすい解説

片岡球子
かたおかたまこ
(1905―2008)

日本画家札幌市に生まれる。1926年(大正15)女子美術学校(現女子美術大学)卒業。1930年(昭和5)に初めて院展に入選し、日本美術院の研究会員となる。1946年(昭和21)に安田靫彦(ゆきひこ)に入門。1951年日本美術院同人に推された。1966年第51回院展に『面構(つらがまえ)・足利義政(あしかがよしまさ)』を出品してから「面構」連作が始まり、史上人物浮世絵師主題にし、土俗的な素朴さと迫力のある表現を押し進めた。1975年、前年の院展に出品した『面構』で日本芸術院恩賜賞を受賞した。1989年(平成1)文化勲章受章

原田 実・二階堂充]

『土方定一編『片岡球子画集』(1980・朝日新聞社)』『弦田平八郎編『現代の日本画6 片岡球子』(1991・学習研究社)』『山梨俊夫編『片岡球子画集』(1992・求龍堂)』『『富士 片岡球子自選画集』(1993・学習研究社)』『『日本編8 片岡球子』(『朝日美術館』23巻2号・1997・朝日新聞社)』『横浜美術館学芸部編『熱き挑戦 片岡球子の全体像』(2000・横浜美術館)』『奥岡茂雄著『片岡球子 個性(こころ)の旅路』(1989・北海道新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「片岡球子」の意味・わかりやすい解説

片岡球子
かたおかたまこ

[生]1905.1.5. 北海道,札幌
[没]2008.1.16. 神奈川
日本画家。札幌の醸造・木材商の家に生まれる。 1926年女子美術専門学校を卒業。両親に勘当されながらも画家を志し,横浜市の小学校教諭として勤めながら画作に励んだ。 1930年『枇杷』で院展に初入選,その後も 1946年『夏』で日本美術院賞を受賞するなど,院展ではたびたび入賞するが,帝展では一度も入賞できず「落選の神様」と呼ばれた。それでも安田靫彦師事し,小林古径に励まされながら研鑽を積んだ。 30年間勤めた教職を辞した 50歳以降,才能が一気に開花。 1954年『歌舞伎南蛮寺門前所見』で伝統芸能の世界に目ざめたが,それは 60歳代から始めた「面構 (つらがまえ) 」シリーズにつながっていった。武将や浮世絵師,戯作者などを描いた一連の作品は力強く個性的で,迫力に満ちている。 1955年女子美術大学講師,のちに助教授教授となり,1966年愛知県立芸術大学教授。 1967年サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表として出品。 1982年日本芸術院会員。 1986年文化功労者。 1989年文化勲章を受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「片岡球子」の解説

片岡球子 かたおか-たまこ

1905-2008 昭和-平成時代の日本画家。
明治38年1月5日生まれ。吉村忠夫,安田靫彦(ゆきひこ)らに師事。昭和5年院展で「枇杷(びわ)」が初入選,27年日本美術院同人となる。母校女子美大の教授。歴史上の人物を主題にした「面構(つらがまえ)シリーズ」を迫力のある表現で連作し,50年「面構―鳥文斎栄之(ちょうぶんさい-えいし)」で芸術院恩賜賞。57年芸術院会員。平成元年文化勲章。平成20年1月16日死去。103歳。北海道出身。

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百科事典マイペディア 「片岡球子」の意味・わかりやすい解説

片岡球子【かたおかたまこ】

日本画家。札幌生れ。1926年東京女子美術学校卒業後,山村耕花に師事。《火山》(1965年)に見るような鮮烈な土俗的イメージとエネルギーに満ちた画面を展開。1989年文化勲章。

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