狩野探幽(読み)カノウタンユウ

デジタル大辞泉 「狩野探幽」の意味・読み・例文・類語

かのう‐たんゆう〔‐タンイウ〕【狩野探幽】

[1602~1674]江戸初期の画家。鍛冶橋狩野派の祖。京都の人。名は守信。幼名、采女うねめ。孝信の長男。永徳の孫。江戸に出て幕府御用絵師となり、桃山時代の豪壮豪麗な様式に対して、瀟洒しょうしゃ、淡白な画風を特色とし、江戸狩野派繁栄の基礎を築いた。

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精選版 日本国語大辞典 「狩野探幽」の意味・読み・例文・類語

かのう‐たんゆう【狩野探幽】

江戸初期の画家。京都の人。孝信の子。名は守信。宗家を弟尚信に譲り幕府の御用絵師となり、鍛冶橋狩野家を起こす。二条城名古屋城をはじめ、多くの寺社大名屋敷障壁画や掛幅(けいふく)を描き、武家に適合した画体を確立し、狩野派繁栄の基礎を築いた。作品「東照宮縁起絵巻」「紫宸殿賢聖障子絵(ししんでんけんじょうのそうじえ)」など。慶長七~延宝二年(一六〇二‐七四

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改訂新版 世界大百科事典 「狩野探幽」の意味・わかりやすい解説

狩野探幽 (かのうたんゆう)
生没年:1602-74(慶長7-延宝2)

江戸初期の画家で江戸狩野の確立者。狩野孝信の長男で,永徳の孫にあたる。幼名采女(うねめ),名は守信。1635年(寛永12)に剃髪して探幽と号した。時の政権の動きに機敏に対応して勢力を伸ばしてきた狩野派は,徳川幕府の成立とともに江戸への進出を図り,幕府の要請に従ってその居城修築に必要な絵師を江戸へ送り込んだ。探幽もその一人として父と共に京都から江戸へ下り,1617年(元和3)幕府御用絵師となって父の跡目を弟尚信に譲り,21年には鍛冶橋門外に屋敷を拝領,23年京都の狩野宗家を弟安信に継がせ,自らは別家して鍛冶橋狩野家をおこす。探幽は,江戸幕府の安定にすばやく対応し,弟たちを相ついで江戸へ下らせ幕府の画事に携わり,幕藩体制の中で御用絵師としての地位を固め,自らを中心とした江戸狩野を確立していった。38年(寛永15)には幕府への多年の功績により法眼に,さらに62年(寛文2)には画家として最高位の法印に叙された。二条城二の丸障壁画《松鷹図》(1626)では,祖父永徳の豪放な巨木表現をさらに大規模に展開すべく意欲を示しているが,そこにはすでに形式の固化がうかがわれる。以後,1634年制作の名古屋城上洛殿障壁画あたりを境に筆数を減じ,余白の余韻を生かした瀟洒(しようしや)で淡白な画風へと転ずる。大徳寺本坊障壁画《山水図》(1641)はその完成された姿である。それは,幕藩体制整備の時勢における武士階級の生活感情に即したものといえる。探幽は,画題的にも儒教精神に適合したものを取り入れたため,地方の諸大名もこぞって狩野派の絵師を招き,狩野派が全国的に繁栄することになった。一方,探幽は《若衆観楓図》のような風俗画にも筆を染めているが,その画風は,やまと絵学習で得た細密描写と漢画の和様化をたくみに融合したものである。探幽の古画学習を裏づけるものに《探幽縮図》があり,やまと絵,漢画,中国画の多彩な分野を模写している。すぐれた写生画を含む膨大な数の縮図の美術史的意義は近年再評価されつつある。しかし,探幽の意図とはうらはらに,《縮図》が江戸狩野派の粉本主義を助長したことも否めない。探幽が江戸絵画史上に残した大きな功績のひとつとして,文化的に未開発な江戸の地に絵画文化の母胎を移植したことがあげられる。そこから,やがて浮世絵に代表される江戸庶民芸術が生まれてくる。
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朝日日本歴史人物事典 「狩野探幽」の解説

狩野探幽

没年:延宝2.10.7(1674.11.4)
生年:慶長7.1.14(1602.3.7)
江戸前期の画家。狩野孝信の長男として山城国(京都府)に生まれる。名を采女,のち守信という。探幽斎,生明,白蓮子と号した。慶長10(1605)年,4歳のとき自ら筆をとって描くところ習熟者のようであったという。16年春「山野胡馬図」を描き江月宗玩に賛を求めた。翌年駿府(静岡県)に赴き徳川家康に謁し,その後江戸へ出て徳川秀忠に謁した。19年将軍秀忠の御前にて揮毫し,祖父永徳の再来と称賛された。元和3(1617)年江戸へ召され幕府御用絵師となる。 同5年,女御御対面所三之間障壁に描く。7年,鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領する。9年,弟安信に狩野宗家を譲る。寛永3(1626)年二条城障壁画(現存)制作を指揮し完成する。4年大坂城障壁画制作を終える。9年徳川秀忠霊廟の画事をなす。10年8月名古屋城本丸障壁画(現存)制作を命ぜられる。現在伝わる作品は江戸狩野様式の確立を伝えるものとして重要。12年,江月宗玩より探幽斎の号を授かり,弟子益信を養子に迎え采女の名を与える。15年12月29日法眼に叙される。17年「東照宮縁起絵巻」(日光東照宮蔵)を奉納する。18年大徳寺本坊方丈障壁画(現存)を制作。これは探幽の水墨障壁画のあらゆるパターンがみられる貴重な遺品である。正保4(1647)年,江戸城障壁画を制作。慶安3(1650)年,加賀支藩大聖寺藩主前田利治の江戸屋敷に,俵屋宗雪と共に「金碧草花図」を描く。明暦2(1656)年の大火で探幽の家も焼失する。寛文2(1662)年5月29日,画家として最高位の法印に叙される。4年後水尾法皇寿像の制作に携わり,法皇より「筆峯大居士」の印を拝領する。この年,月俸をかえて河内国に采地200石を賜る。10年中風を病み,翌年本復したが,数年後に江戸で没した。墓は池上本門寺にある。江戸狩野派様式を創始した功績は大きく,近年探幽の遺した膨大な縮図が古画研究の視点から再評価されている。またやまと絵学習による探幽の新様式も従来の探幽の水墨様式に加え再評価されつつある。<参考文献>武田恒夫日本美術絵画全集』15巻,河野元昭『日本の美術』194巻(至文堂)

(安村敏信)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狩野探幽」の意味・わかりやすい解説

狩野探幽
かのうたんゆう
(1602―1674)

桃山後期から江戸初期の画家。狩野孝信(たかのぶ)の長子として京都に生まれる。次弟に尚信(なおのぶ)、末弟に安信があった。名を守信、初め采女(うねめ)と称した。幼くして画才を発揮し、13歳のとき、徳川秀忠(ひでただ)に謁見、『海棠(かいどう)に猫』の席画を描き、永徳の再来と賞賛される。1617年(元和3)幕府の御用絵師となり、その4年後には、江戸城鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷と所領200石を拝領、鍛冶橋狩野家を開いた。宗家の貞信(さだのぶ)の没後は名実ともに狩野家の中心的存在となり、1626年(寛永3)の二条城行幸殿の障壁画(しょうへきが)制作では一門を率いて活躍した。その後、名古屋城、江戸城、京都御所、日光東照宮などの障壁画を制作、幕府の重要な絵事に健筆を振るった。1635年入道して探幽と号し、3年後には法眼(ほうげん)に、ついで1662年(寛文2)には宮内卿(くないきょう)法印にまで叙せられる。その画歴は、(1)采女時代、(2)剃髪(ていはつ)後の探幽斎時代、(3)法印叙任前後より晩年に至る、画面に揮毫(きごう)時の年齢を書き入れた「行年書き」時代、に分かれる。探幽の余白を生かした瀟洒(しょうしゃ)で端正な新様式は、江戸狩野様式と称せられ、以後の狩野派の規範として受け継がれていった。また彼は、幕府の権力機構に相応して一門の組織整備にも腐心し、奥絵師を頂点に、表絵師、諸大名のお抱え絵師、町狩野と広範な裾野(すその)を有したヒエラルキー(階層組織)をつくりあげ、幕府内での狩野派の地位を不動のものとした。延宝(えんぽう)2年10月7日没。法名玄徳院日道、池上本門寺に葬る。代表作に名古屋城上洛(じょうらく)殿、二条城二の丸御殿障壁画、『鵜飼図屏風(うかいびょうぶ)』(東京・大倉集古館)、『東照宮縁起絵巻』(日光東照宮)などがある。

[榊原 悟]

『武田恒夫著『日本美術絵画全集15 狩野探幽』(1980・集英社)』


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百科事典マイペディア 「狩野探幽」の意味・わかりやすい解説

狩野探幽【かのうたんゆう】

江戸初期の狩野派の画家。名は守信。狩野孝信の長男で,狩野永徳の孫。1612年江戸に下る途中,駿府で徳川家康に謁し,1617年,16歳の若さで幕府の御用絵師となる。以後,幕府の用命を受け,日光,芝,上野の徳川家霊廟の装飾や,江戸城の障壁画制作に従事,また大坂城,二条城,名古屋城,京都御所,寺院などの障壁画制作にも活躍した。1635年,出家して探幽斎と称し,法眼に叙せられ,1662年には宮内卿法印となり,狩野派の権威を不動のものとした。初期の二条城二の丸殿舎大広間の襖絵(ふすまえ)《松に鷹図》では永徳の豪壮な作風の復活を志したが,以後,桃山様式への追従をやめ,淡泊,瀟洒(しょうしゃ)な味わいをもつ江戸狩野様式をつくり出した。代表作名古屋城上洛殿襖絵,大徳寺本坊襖絵など。ほかに写生図や古画の縮図も数多く作った。
→関連項目狩野尚信久隅守景縮図(美術)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狩野探幽」の意味・わかりやすい解説

狩野探幽
かのうたんゆう

[生]慶長7(1602).1.14. 京都
[没]延宝2(1674).10.7. 江戸
江戸時代初期の画家。狩野孝信の長男で永徳の孫。初名采女 (うねめ) ,名は守信。早くから画才を発揮。慶長 17 (1612) 年,駿府で徳川家康に拝謁,元和3 (17) 年徳川秀忠に召されて江戸幕府御用絵師となり,同7年鍛冶橋門外に屋敷を拝領して鍛冶橋狩野を興した。二条城,大坂城,名古屋城,江戸城などの城郭建築や,寛永,承応,寛文度造営の内裏の障壁画制作に活躍したほか,日光東照宮,増上寺,寛永寺,江戸城紅葉山などの徳川家霊廟の装飾をも担当。また南禅寺,大徳寺,聖衆来迎寺などの寺院にも墨技が残る。寛永 15 (38) 年剃髪して探幽斎と号し,法眼に叙され,寛文2 (62) 年には宮内卿法印に昇叙。寛永前半頃までの画風は,二条城二の丸御殿の『松鷹図』のように,永徳様式を継承しているが,そこにはすでに桃山障壁画にみられた力動感はなく,装飾化と整合化が進んでいる。しかしその後は余白の多い瀟洒な水墨画に新生面を開き,名古屋城上洛殿の『帝鑑図』『四季花鳥図』襖絵 (1633) や大徳寺本坊方丈の『山水図』襖絵 (48) などのすぐれた作品を残した。この新様式はのちの狩野派以外の画派にも大きな影響を与えた。古今の絵画を写した『探幽縮図』は,彼の日頃の努力と卓抜な描画力をうかがわせる。主要作品は上記のほか南禅寺本坊小方丈『竹林群虎図』襖絵,『東照宮縁起絵巻』 (日光東照宮) ,『鵜飼図屏風』 (大倉集古館) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「狩野探幽」の解説

狩野探幽
かのうたんゆう

1602.1.14~74.10.7

江戸前期の狩野派の画家。孝信(たかのぶ)の長男。京都生れ。江戸に下り,1617年(元和3)幕府御用絵師として鍛冶橋(かじばし)門外に屋敷を拝領し,鍛冶橋狩野家の祖となった。38年(寛永15)法眼(ほうげん),62年(寛文2)法印叙任。実質的な狩野門の統率者として数々の幕府御用を勤めた。室町水墨画・大和絵など幅広く吸収しつつ,幕藩体制の整備に同調するように,桃山時代の豪壮な大画様式を優美・知的な様式へと一変させた。代表作は,二条城二の丸御殿・名古屋城上洛殿・大徳寺本坊方丈など数多くの障壁画や「探幽縮図」とよばれる古画の模写・写生帳など。探幽の画風は,形式化しつつ江戸狩野様式として江戸時代を通じて継承された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「狩野探幽」の解説

狩野探幽 かのう-たんゆう

1602-1674 江戸時代前期の画家。
慶長7年1月14日生まれ。狩野孝信の長男。元和(げんな)3年幕府御用絵師となり,7年(1621)鍛冶橋(かじばし)狩野家をおこす。二条城,名古屋城などの障壁画制作に参加し,また御所,日光東照宮の障壁画制作に指導的役割をはたした。江戸狩野派の絵画様式はもとより,その組織や社会的地位の確立におおきな影響をあたえた。法印。延宝2年10月7日死去。73歳。名は守信。別号に白蓮子。作品はほかに大徳寺本坊方丈障壁画,「鵜飼(うかい)図屏風」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「狩野探幽」の解説

狩野探幽
かのうたんゆう

1602〜74
江戸前期の狩野派画家。狩野派中興の祖
永徳の孫。江戸幕府の奥絵師に召され,狩野派を新時代の武家社会に適するようにし,300年にわたる狩野派繁栄の基を固めた。代表作に名古屋城・二条城・大徳寺などの障壁画や『東照大権現縁起絵巻』など。

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367日誕生日大事典 「狩野探幽」の解説

狩野探幽 (かのうたんゆう)

生年月日:1602年1月14日
江戸時代前期の画家
1674年没

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世界大百科事典(旧版)内の狩野探幽の言及

【江戸時代美術】より


[桃山様式の終結と転換]
 確立したばかりの徳川幕藩体制は,その豊かな財力にものをいわせ,権威の荘厳のため,これまでに増して大規模な城郭や霊廟を営んだ。二条城二の丸御殿(1624‐26)はその代表的な遺構の一つであり,内部を彩る狩野探幽一門の障壁画の巨大な松の枝ぶりが長押(なげし)の上にまで延びて金地に映える壮観は,安土城以来の武将の理想の実現といってよい。だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。…

【狩野派】より

…室町中期から明治初期まで続いた,日本画の最も代表的な流派。15世紀中ごろに室町幕府の御用絵師的な地位についた狩野正信を始祖とする。正信は俗人の専門画家でやまと絵と漢画の両方を手がけ,とくに漢画において時流に即してその内容を平明なものにした。流派としての基礎を築いたのは正信の子の元信である。漢画の表現力にやまと絵の彩色を加えた明快で装飾的な画面は,当時の好みを反映させたものであり,また工房を組織しての共同制作は数多い障壁画制作にかなうものであった。…

※「狩野探幽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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