王廷相(読み)おうていしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「王廷相」の意味・わかりやすい解説

王廷相
おうていしょう
(1474―1544)

中国、明(みん)代中期の思想家。字(あざな)は子衡(しこう)、号は平厓(へいがい)または浚川(しゅんせん)。河南省蘭考(らんこう)県の人。王陽明(おうようめい)(守仁)、羅欽順(らきんじゅん)などと同様に宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)(?―1510)のために配流(はいる)されるが、のちに累遷して兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)になる。著書に『王氏家蔵集』があり、「慎言(しんげん)」「雅述(がじゅつ)」などの主著が網羅されている。『横渠理気弁(おうきょりきべん)』を著して宋(そう)代の張横渠(載)の「気の哲学」を高く評価し、自らも理気論を深く思索し、何塘(かとう)(1474―1543)と論争した。朱子学の「理の哲学」に対比すると、著しく「気」を重視して、独自の理気論を構築した。しかし、気を重視するあまり、それを超克する普遍的立場を樹立することにかならずしも成功していない。そのために気の世界に埋没してしまい、社会政策論、経世論においては運命論に陥り、腐敗の進行する現実社会のなかにあって、それに対抗可能な実践主体を確立する思想体系を樹立することができなかった。彼は個人の樹立よりも、礼制を復興して社会規範を強化し、外側から人間、社会の腐敗を矯正しようとした。

田公平 2016年2月17日]

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改訂新版 世界大百科事典 「王廷相」の意味・わかりやすい解説

王廷相 (おうていしょう)
Wáng Tíng xiang
生没年:1474-1544

中国,明代中期の思想家。字は子衡,号は浚川。河南儀封の人。弘治15年(1502)の進士。官は南京兵部尚書に昇った。朱子学の権威が揺らぎはじめた時期に思想形成した彼は,張載(横渠)の理気・太虚論に触発されて〈気の哲学〉を構築したが,時流を導くほどの迫力はなく,当時はさしたる影響力をもたなかった。近年,中国では気の哲学=唯物論哲学思想家として,また日本でも〈気〉重視の思想家として高く評価された。詩文においても優れ,李夢陽(りぼうよう)らとともに前七子の一人に数えられる。《慎言》《雅述》は彼の思想をうかがうに足る主著である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王廷相」の意味・わかりやすい解説

王廷相
おうていしょう
Wang Ting-xiang; Wang T`ing-hsiang

[生]成化10 (1474)
[没]嘉靖23 (1544)
中国,明代の政治家,学者,詩人。儀封(河南省蘭考県)の人。字は子衡。号は平厓,浚川。諡は粛敏。弘治15(1502)年の進士。正徳3(1508)年宦官劉瑾に逆らい左遷されたが,やがて召されて御史となり,嘉靖2(1523)年山東布政使から四川巡撫となり,芒部(雲南省鎮雄県)の反乱を平定し,累進して兵部尚書となり,綱紀粛正に努めた。博学で議論を好み,経術をもって知られたばかりでなく,詩においても一家をなし,李夢陽らとともに前七子と呼ばれる詩派の一人であった。

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世界大百科事典(旧版)内の王廷相の言及

【理気説】より

…明の王守仁(陽明)は,理気の関係についてはさほどの関心をもたなかったが,〈理は気の条理,気は理の運用〉(《伝習録》中巻)という理気一体観を表明している。また,同時代の羅欽順(らきんじゆん)(整庵)や王廷相らは,理よりも気を世界の根源として理の実体化を批判し,清の戴震(たいしん)も理の実体化には反対し,理を事物に内在する条理だとした。日本の伊藤仁斎も,戴震より早く〈理は気中の条理のみ〉(《語孟字義》天道)と言い切っている。…

※「王廷相」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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