生野銀山(読み)イクノギンザン

デジタル大辞泉 「生野銀山」の意味・読み・例文・類語

いくの‐ぎんざん【生野銀山】

兵庫県中央部、朝来あさごにあった銀山すず・銅・鉛なども産し、大同2年(807)発見と伝えられる。江戸幕府直轄となり、産出量を誇った。明治以後、三菱金属鉱業の鉱山となり、昭和48年(1973)閉山

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改訂新版 世界大百科事典 「生野銀山」の意味・わかりやすい解説

生野銀山 (いくのぎんざん)

兵庫県朝来郡生野町(現,朝来市)に所在した銀・銅・鉛鉱山の総称。太盛山,内尾谷,金香瀬,若林山,千珠山,篤光山などの諸鉱山からなる。この地域は,第三紀の凝灰岩,ケツ岩などが厚く堆積しており,それを覆って,あるいは貫入,逬入(へいにゆう)した流紋岩,安山岩類の火成岩とともに地質学的なベースン(盆状構造)をなしている。このベースンに大小60余条におよぶ割れ目充てん熱水性鉱脈が知られている。1973年の休山に先立つ数年間は,シュリンケージ採掘法,サンドスライム充てん採掘法によって年間25万t(銅品位1.03%)を生産していた。また,銅鉱は香川県直島の製錬所に送って製錬していた。

開鉱は口伝によれば807年(大同2)とされるが,記録によれば,1542年(天文11)に再興されたとする。はじめ山名氏,ついで太田氏に支配され,その後は織豊・徳川時代を通じて直轄領であった。この間,各鉱山の盛衰に応じて,幕府直営,山師請負の経営が行われた。江戸幕府は1600年(慶長5)から生野奉行,1716年(享保1)から生野代官をおいて,鉱山周辺直轄領(1751年5万2500石)とともに支配させた。そのうち銀山7町からなる銀山領には8ヵ所の番所が設けられ,出入りを統制した。銀山7町は1746年(延享3)8151人の人口を擁していたといわれる。明治に入って,1868年(明治1)に官営となり工部省所管,85年に農商務省所管,翌86年大蔵省所管,89年御料局所管と移され,96年11月三菱合資会社に払い下げられた。それ以後三菱の経営となったが,1973年,三菱金属鉱業は衰山のため休山とした。17世紀初頭には銀山として,ついで銅・鉛山として栄えたが,18世紀以降では,19世紀半ばの一時的復興を別とすれば,衰山の傾向を強めた。鉱産額は,17世紀初頭の最盛期については不明,1681年(天和1)以降10年間の灰吹銀産高は,年平均555貫匁余,1713年(正徳3)以降5年間の年平均灰吹銀産高は407貫匁,同じく銅産高は9万2000貫匁であった。明治に入って,1868年フランス人鉱山技師コアネFrançois Coignetらが政府から派遣され,官行鉱山の近代化のモデルとして,ヨーロッパ鉱山技術の導入が進められた。その結果,89年には,金8000オンス,銀547貫匁,銅9487貫匁を生産するまでに再興,三菱の経営に入ると明治末年には,金215kg,銀7400kg,銅1360t(1910)を生産するまでになった。しかし,鉱石の品位低下はいちじるしく,明治30年代の4~5%から,昭和期に入ると1%前後にまで下落した。
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百科事典マイペディア 「生野銀山」の意味・わかりやすい解説

生野銀山【いくのぎんざん】

兵庫県生野町(現・朝来市)に所在。9世紀初頭の開鉱との口伝があるが,16世紀半ばに山名氏が再開発織豊(しょくほう)政権は直轄領とし,徳川家康も生野奉行(のち代官)を置いて鉱山周辺直轄領とともに支配させた。17世紀初頭の最盛期には産銀額は全国一。その後は銅・鉛山として栄え,18世紀半ばの銀山7町の人口は8000人以上であった。明治維新後官営となったが,1896年三菱合資会社所有,1973年休山。
→関連項目院内銀山官営鉱山石代納

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生野銀山」の意味・わかりやすい解説

生野銀山
いくのぎんざん

兵庫県朝来市にある 16世紀以来の銀山。大同2 (807) 年発見されて以来採掘されていたらしいが,天文 11 (1542) 年山名祐豊が本格的な開発に着手して以来,有数の銀山となった。織田信長,豊臣秀吉も直轄領として重視,徳川家康も慶長3 (1598) 年直轄地として代官を置き経営。慶長,元和の頃が最盛期で,産銀額も全国一で,石見銀山と並んで銀貨の原料の最大の供給源となった。明治維新後,官営として政府は外国人技師を招き,採掘,精錬などの技術の近代化に努めた。 1889年には宮内省御料となった。 1896年には三菱財閥に払い下げられ,以来民間経営に移ったが,1973年3月閉山した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「生野銀山」の解説

生野銀山
いくのぎんざん

但馬国朝来(あさご)郡にあった銀山。現在の兵庫県朝来市。1542年(天文11)の発見といわれ,但馬国守護山名祐豊はここを直轄領として銀山城を築き,領国防衛と銀山経営の拠点とした。69年(永禄12)織田信長は当地を支配下に収め,銀山を直営地とした。信長の第2次但馬国平定後は豊臣秀吉,関ケ原の戦以後は徳川家康の直轄領となる。慶長・元和期が最盛期で,慶安期からは産出量が減少し,江戸中期には銅の産出量が激増した。1868年(明治元)工部省所管。96年三菱に払い下げられたが,1973年(昭和48)三菱金属鉱業(現,三菱マテリアル)は休山とした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「生野銀山」の解説

生野銀山
いくのぎんざん

兵庫県朝来 (あさこ) (近代以降)郡生野町にあった戦国時代以来の銀山
807年の発見と伝えられるが,元亀年間(1570〜73)領主山名氏の開発により発展。その後,織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らは,それぞれ直接経営にあたり,その産額は17世紀前半が最も多く,当時全国一であった。明治維新後官営となり,のち1896年三菱に払い下げられた。1973年休山。

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世界大百科事典(旧版)内の生野銀山の言及

【但馬国】より

…一庁官分の収入は六波羅府の費用にあてられたのであろう。なお但馬の幕府領は南の生野銀山付近から北流する円山(まるやま)川沿いの軍事交通の要所に点々とあり,朝来郡広谷(ひろたに)荘,同多々良岐荘,同伊由位田(竹田荘),同磯部荘,養父郡水谷大社,同浅間寺,気多郡高生郷,城崎郡新田荘と続く。ほかに幕府貴人の所領もあり,気多郡大将野(たいしようの)荘の地頭が源実朝未亡人,出石郡太田荘の地頭が北条時広夫人の知行などであり,六波羅評定衆の所領では水谷大社69町余の預所・地頭・神主の水谷清有,二方郡田公御厨48町余の地頭長井頼茂,養父郡朝倉荘36町の地頭長井頼重の知行などがある。…

※「生野銀山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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