田中不二麿(読み)タナカフジマロ

デジタル大辞泉 「田中不二麿」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ふじまろ【田中不二麿】

[1845~1909]政治家愛知の生まれ。岩倉使節団に随行して欧米教育制度調査。帰国後、文部大輔として学制改革を企図した教育令制定。のち司法卿枢密顧問官法相などを歴任

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精選版 日本国語大辞典 「田中不二麿」の意味・読み・例文・類語

たなか‐ふじまろ【田中不二麿】

幕末・明治初期の政治家。子爵。名古屋藩士の子。文部大輔、司法相などを歴任。教育行政に力を尽くし、欧米教育制度を実地の調査のもとに研究、「理事功程」を著わした。自由主義に基づく「教育令」を制定。弘仁二~明治四二年(一八四五‐一九〇九

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図書館情報学用語辞典 第5版 「田中不二麿」の解説

田中不二麿

1845(弘化2)-1909(明治42).愛知県名古屋市出身.教育行政家,政治家.明治初期,無料制国立図書館を設立した.尾張藩士から文部省理事官となり,岩倉使節団に随行,帰朝後,欧米の教育制度を紹介した報告書『理事功程』(1873)を刊行.その中に公共図書館の記述がある.文部省で文部大丞を務めた時期,太政官博覧会事務局に移管されていた書籍館を文部省に名称復帰させ,1875(明治8)年に東京書籍館を創設,無料制を実現した.1876(明治9)年に米国建国百年祭に出席,『合衆国公共図書館特別報告書』をもとに米国の図書館事情を報告した.1879(明治12)年自由主義教育令を制定したが,翌年司法卿に転出させられた.その後,司法大臣,駐伊大使,枢密顧問官などを歴任.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中不二麿」の意味・わかりやすい解説

田中不二麿
たなかふじまろ

[生]弘化2(1845).6.12. 名古屋
[没]1909.2.1. 東京
明治初期の文教行政の首脳。尾張藩士。幕末尾張藩の明倫堂監生,助教並となり,また尊王派志士として活躍した。維新後新政府に出仕し,明治2 (1869) 年大学御用掛。同4年岩倉遣欧使節に随行し,欧米教育制度を調査,この調査は帰国後『理事功程』 15巻として刊行された。 1873年帰国し翌年文部大輔となり,「学制」実施の実質上の最高責任者として教育行政の要衝にあった。 77年学制改革に着手し,学監ダビッド・モルレーの協力を得て教育令の原案である「日本教育令案」を起草。これをもとに 79年,従来の「学制」に代る「教育令」が制定された。この教育令はアメリカの影響を強く受けたもので,「自由教育令」とも呼ばれる。しかしこの改革は自由主義を基調としたものであったため非難を受け,80年司法卿に転じることになった。その後,司法,外交面で活躍し,枢密顧問官を経て 91年司法大臣になった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中不二麿」の解説

田中不二麿 たなか-ふじまろ

1845-1909 明治時代の官僚,政治家。
弘化(こうか)2年6月12日生まれ。もと尾張(おわり)名古屋藩士。明治4年岩倉遣外使節に随行して欧米の教育事情を調査。7年文部大輔(たいふ)となり,12年教育令を制定。のち司法卿,イタリア公使,フランス公使,第1次松方内閣の法相,枢密顧問官などを歴任。明治42年2月1日死去。65歳。名は不二麻呂ともかく。

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旺文社日本史事典 三訂版 「田中不二麿」の解説

田中不二麿
たなかふじまろ

1845〜1909
明治時代の政治家
尾張藩出身。幕末,尊王攘夷運動に参加。新政権発足後,参与となり岩倉遣外使節に同行し,欧米の教育制度を視察。1879年文部卿として教育令制定に尽力。のち駐伊・駐仏公使を経て,'90年枢密顧問官,'91年第1次松方正義内閣の法相を歴任した。

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