田丸城(読み)たまるじょう

日本の城がわかる事典 「田丸城」の解説

たまるじょう【田丸城】

三重県度会(わたらい)郡玉城(たまき)町にあった平山城(ひらやまじろ)。同県指定史跡。南北朝時代初めの1336年(建武3・延元1)、南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる。親房の三男北畠顕能が伊勢国司となって以降は、この城は国司館として伊勢支配の拠点となった。しかし、伊勢神宮を押さえる戦略的要衝であったため、南朝・北朝による争奪戦が繰り広げられ、1342年(康永1・興国3)に足利尊氏によって落城している。北畠氏は戦国時代に入ると戦国大名となったが、北畠氏が北勢(伊勢国北部)に拠点を移すと、北畠氏庶流の第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を称した。織田信長の伊勢侵攻後、城主の田丸直昌は城を明け渡して織田信雄に仕えた(直昌はその後、紆余曲折を経て江戸幕府の旗本となった)。その後、北畠具教が織田信長の二男信雄を養嗣子とすることで信長と和睦をしたことから、田丸城は1575年(天正3)に信雄の居城として改築が行われ、3層の天守を備えた近世城郭になった。しかし、その5年後、火災により天守を焼失したことから、信雄は松ヶ島城(松阪市)に居城を移している。その後、田丸城には蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏が相次いで入城し、1619年(元和5)には、紀州徳川家(紀州藩)の属城となり、徳川頼宣(紀州徳川家初代)は付家老の久野宗成を田丸城城主として田丸領6万石を経営させた。以後、田丸城城主は久野氏8代が続いて明治維新に至る。ちなみに、大岡忠相(のちの江戸町奉行の大岡越前守忠相)が山田奉行をつとめていた時代、経営する天領と田丸領との間に、領地をめぐる争いが起こっている。明治維新後、田丸城の建造物のほとんどが取り壊されたため、主郭部には建物は残されていないが、織田氏の城郭の特徴を残した天守台や石垣外堀内堀堀切空堀などの遺構が良好な状態で現存され、本丸周辺は桜の名所としても知られる城山公園になっている。三の丸御殿跡は現在、田丸中学校の敷地になっている。また、明治に入り、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども同公園内に再移築された。JR参宮線田丸駅から徒歩約10分。◇玉丸城、玉丸御所ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の田丸城の言及

【玉丸城】より

…伊勢国度会(わたらい)郡にあった中・近世の城。田丸城とも書き,現,三重県度会郡玉城町田丸に城跡がある。1336年(延元1∥建武3)10月に伊勢の南軍である度会家行らが北畠親房・顕信とともに城に入り,以後42年(興国3∥康永1)に落城するまで南軍の拠点であった。…

※「田丸城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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