出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
愛知県南部,渥美(あつみ)半島にある市。2003年8月田原町が赤羽根(あかばね)町を編入し市制。さらに05年10月渥美町を編入して成立した。人口6万4119(2010)。
田原市南部の旧町。旧渥美郡所属。人口6151(2000)。渥美半島中南部に位置し,南は遠州灘に面する。西の旧渥美町との境に半島最高峰の大山(328m)があり,海岸部には低地が広がる。農業が町の主要産業で,全戸数の6割(1995)が農家,うち半数余を専業農家が占める。温暖な気候と豊川用水の通水により,温室やビニルハウスでの施設園芸が特に盛んで,電照菊を中心にメロン,トマトなどを産する。キャベツ,ダイコンなどの野菜の露地栽培や肉牛,乳牛,豚の飼養や養鶏も行われる。1973年赤羽根漁港が整備され,漁業も盛んである。片浜十三里といわれる断崖絶壁の海岸線が続く一色の磯は,美しい景観と磯釣りで知られる。
田原市西部の旧町。旧渥美郡所属。人口2万2402(2000)。渥美半島先端部を占め,南は遠州灘,西は伊勢湾,北は三河湾に面する。古くから海上交通の要衝として栄え,中心地福江は商工業が盛んである。東部一帯の山地を除き,平たん地が多く,畑作を主体とする農業地帯をなす。1968年豊川用水の通水後はキャベツ,ダイコン,スイカなどの野菜栽培が盛んとなり,ダイコンはたくあん漬に加工されて出荷される。太平洋岸を中心に施設園芸も盛んで,電照菊をはじめ,メロン,トマトなどが生産される。三河湾に面する福江湾を中心にノリ,アサリなどの浅海養殖や沿岸漁業が行われる。伊良湖岬周辺は三河湾国定公園,渥美半島県立自然公園指定の景勝地として知られる。伊川津貝塚,東大寺瓦窯跡,宮山原始林(天)などがある。
田原市東部の旧町。旧渥美郡所属。人口3万6981(2000)。渥美半島中央部に位置し,南は遠州灘,北は三河湾に面する。江戸時代は田原藩1万2000石の城下町,港町として発展した。背後の蔵王山の石灰石を原料としたセメント工業が盛んであるが,1960年代に三河湾岸に臨海工業用地の造成が進み,自動車工場などが進出している。周辺部では豊川用水を利用してスイカ,メロン,花卉などの施設園芸が盛んで,畜産も行われる。縄文後期の吉胡(よしご)貝塚,古代の百々(どうどう)陶器窯跡,大アラコ古窯跡があり,いずれも国の史跡に指定されている。また渡辺崋山の出身地で,崋山神社,崋山文庫などがある。豊橋鉄道渥美線,国道259号線が通じる。
執筆者:萩原 毅
京都府綴喜郡内の地名。広くは宇治田原町全体を指すが,狭義では同町の北部奥山田と西端の高尾(こうの)を除いた地帯を指す。四方を山に囲まれ,南側一帯に旧石器の出土層がつらなり,奥山田では黒曜石が採収される。〈和銅開珎〉も出土し,字郷之口(ごうのくち)に古墳がある。また字南(みなみ)に奈良時代の窯跡もある。字荒木(あらき)に山滝(さんりゆう)寺跡があり,奈良前期の瓦が散在している。764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱のとき,追討軍が〈田原道〉を通ったことが,文献史料の初見である。991年(正暦2)東大寺の別当だった平崇が禅定寺を建立し,当時の古文書と仏像を現在まで伝えている。また平治の乱で,信西入道が大道寺を通って信楽へ逃れようとしてはたせなかったことは有名である。鎌倉時代に地頭が設置された。承久の乱には北条軍がここを通過して,宇治川に進軍している。鎌倉後期から室町前期にわたって,禅定寺の杣人と曾束庄(そつかのしよう)との間で堺相論が続けられている。1414年(応永21),将軍足利義持が田原の一部を石清水八幡宮に寄進したこともあった。織田信長の代官山口甚介が郷之口に小規模の城を築き,一時支配したが,1623年(元和9)後水尾天皇の中宮和子の禁裏御料となった。また1738年(元文3)永谷宗円(宗七郎)が,煎茶の製造方法を発明したことが特記される。現在も茶生産が,この地の一番の特産品である。
執筆者:藤本 孝一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新