田口和美(読み)たぐちかずよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田口和美」の意味・わかりやすい解説

田口和美
たぐちかずよし
(1839―1904)

解剖学者。武蔵(むさし)国藤畠郷(埼玉県北埼玉郡)出身。1853年(嘉永6)江戸に出て林洞海蘭方(らんぽう)医学を学び、その後下野(しもつけ)国(栃木県)佐野開業。明治維新後、1868年(明治1)医学校句読師となり、1876年東京医学校の初代解剖学教授、翌1877年東京大学医学部教授となり、没年までその職にあった。その間、1887年から2年間ドイツに留学、1893年には日本解剖学会、1902年には連合医学会をそれぞれ創設して初代会頭となった。日本人初の解剖学教授として解剖用死体の入手に努力し、しかも従来の刑死体から病死体へ変更して遺体解剖観の刷新に努めた。神経・血管の破格に関する研究を行う。著書に『人体解剖攬要(らんよう)』ほかがある。

[澤野啓一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田口和美」の意味・わかりやすい解説

田口和美
たぐちかずよし

[生]天保10(1839).武州
[没]1904.2.3. 東京
医学者。近代解剖学創始の功労者。字は行節,節堂と号した。林洞海についてオランダ医学を修め,佐藤一斎,塩谷宕陰に漢学を学んだ。明治4 (1871) 年ドイツ人軍医 L.ミュラーらが大学東校 (東京大学医学部の前身) の教師として来日した頃,同校に出仕,教授材料の解剖死体を集めるのに苦心し,特志解剖 (本人の生前の希望による解剖) の実施にも関与した。 1874年東京大学医学部の初代解剖学教授,87年ヨーロッパに留学。 93年に日本解剖学会を起し,終生会頭であった。血管,神経などの破格に関する研究で知られ,主著『人体解剖攬要』『人体組織攬要』などがある。

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朝日日本歴史人物事典 「田口和美」の解説

田口和美

没年:明治37.2.3(1904)
生年:天保10.10.15(1839.11.20)
明治期の医学者。武蔵国埼玉郡太田荘藤畠郷(埼玉県北川辺町)の医師順庵の長男。15歳のとき江戸で蘭医学を学び一時下野国(栃木県佐野市)で開業ののち,再び東京に出て医学校兼病院に学ぶ。明治3(1870)年大学東校(東大)に採用されて以来一貫して解剖学の研究と教育に尽力し,14年東大教授となり日本人教授として初めて日本語で解剖学を教授し,現職のまま死亡した。3年には約2カ月間に49体を解剖。『人体解剖攬要』を著し,26年創立された日本解剖学会の初代会頭となるなど解剖学で先駆的役割を果たした。官費を断り自費でドイツ留学し,帰国後は日清戦争も知らなかったほど研究に生涯をささげた。<参考文献>小川鼎三「明治医学の偉才」(『医海時報』429号)

(網野豊)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田口和美」の解説

田口和美 たぐち-かずよし

1839-1904 明治時代の解剖学者。
天保(てんぽう)10年10月15日生まれ。江戸で西洋医学をまなび,下野(しもつけ)(栃木県)佐野で開業。その後大学東校で解剖学を研究,明治10年東京大学医学部解剖学の初代教授となる。ヨーロッパに留学後日本解剖学会を創立して,初代会頭となった。明治37年2月3日死去。66歳。武蔵(むさし)埼玉郡出身。字(あざな)は行節。号は節堂。著作に「解剖攬要」など。

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