百科事典マイペディア 「田口掬汀」の意味・わかりやすい解説
田口掬汀【たぐちきくてい】
→関連項目高井有一
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小説家、劇作家。本名鏡次郎。秋田県生まれ。丁稚(でっち)奉公、郡役所の雇などを経て新声社に入社し『新声』記者となり、そのかたわら小説を執筆した。1903年(明治36)『萬朝報(よろずちょうほう)』に転じ、『女夫波(めおとなみ)』(1904)、『伯爵夫人』(1905)などの家庭小説を連載して人気作家となった。一方、彼は脚本にも筆を染め、『トスカ』の翻案劇『熱血』(1907)などの作品を書いた。07年萬朝報退社後、大阪帝国座の座付作者、『大阪毎日新聞』の記者を勤めたが、15年(大正4)小説『ふたおもて』発表後は創作の筆を絶ち、美術批評に専念した。
[畑 実]
『『明治文学全集93 明治家庭小説集』(1969・筑摩書房)』
…必ずしもハッピー・エンドを心がけてはいないが,ときに明るい解決を目ざしたものもあり,〈光明小説〉と呼ばれた(中村春雨の《無花果(いちじく)》(1901)など)。その展開は,尾崎紅葉の《金色夜叉(こんじきやしや)》(1897‐1902),徳冨蘆花の《不如帰(ほととぎす)》(1898‐99)あたりを先駆とし,菊池幽芳の《己が罪》(1899‐1900),《乳姉妹》(1903)などをピークに,草村北星の《浜子》(1902),《相思怨》(1904),田口掬汀(きくてい)の《女夫波(めおとなみ)》(1904),《伯爵夫人》(1905),大倉桃郎(とうろう)の《琵琶歌》(1905)などが続出し,その脚色による新派劇の興隆と相まって,大正の柳川春葉《生(な)さぬ仲》(1912)などに及んでいる。【岡 保生】。…
…しかしそれにもかかわらず,依然として保守的なマンネリズムを続けていたため,それが特に目立つ日本画部に革新の声があがった。1916年,東京の鏑木清方,吉川霊華(きつかわれいか)(1875‐1925),結城素明,平福百穂,松岡映丘と,美術雑誌《中央美術》(1915‐36)の主宰者田口掬汀(1875‐1943)が金鈴社を結成して改革を求めた。これに続いて18年には,京都市立絵画専門学校での竹内栖鳳門下から,土田麦遷,村上華岳,榊原紫峰,小野竹喬,野長瀬晩花(のながせばんか)(1889‐1964)の5名が,栖鳳と中井宗太郎を顧問に国画創作協会を結成して独立し,後期印象派への関心のうちに,清新な作品を生み出すことになる。…
※「田口掬汀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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