田無(読み)たなし

精選版 日本国語大辞典 「田無」の意味・読み・例文・類語

たなし【田無】

東京都の中北部武蔵野台地中央部の地名。地名は、台地で水田の少ないことに由来するという。江戸時代所沢街道青梅街道宿場町市場町として発達。現在は住宅都市。西武鉄道新宿線が通じる。昭和四二年(一九六七市制。平成一三年(二〇〇一保谷市と合併して西東京市となる。

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デジタル大辞泉 「田無」の意味・読み・例文・類語

たなし【田無】

東京都中北部にあった市。青梅おうめ街道宿場町として発達。西武新宿線が通じる住宅地。平成13年(2001)保谷市と合併して西東京市となった。→西東京

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田無」の意味・わかりやすい解説

田無
たなし

東京都北西部にある西東京市西部の地区。1967年(昭和42)市制施行、2001年(平成13)東に接する保谷市(ほうやし)と合併して西東京市となった。西武鉄道新宿線が通る。1606年(慶長11)、江戸城大修理の資材運搬の目的で青梅街道(おうめかいどう)が開かれた。その資材の石灰運送の伝馬継立ての宿場として発達し、運送にあたる人夫の食事提供のため、農家が田畑耕作をなおざりにして街道沿いに集落を開いたことが地名のおこりという。また、武蔵野(むさしの)台地の中央部にあり、台地上の乏水性地域で水田がなかったことに由来するともいう。青梅街道沿いの宿場町、また所沢街道・保谷(ほうや)街道の分岐点の市場町として毎月一と六の日に市(いち)が開かれた。昭和以後住宅地、工場地として発展した。現在、時計、機械、特殊金属、重電機など都心から立地移動した内陸工業がみられる。宅地化も第二次世界大戦後急激に進み、保谷地区、東久留米(ひがしくるめ)市にまたがって大規模なひばりが丘住宅団地が形成されている。北東部に東京大学大学院の広大な農場や演習林が緑地をつくり、それに接して西東京いこいの森公園がある。南は石神井(しゃくじい)川の侵食谷が曲がっている。

[沢田 清]

『『田無市史』全4巻(1995・田無市)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田無」の意味・わかりやすい解説

田無
たなし

東京都中部,西東京市西部の地名。武蔵野台地上にある。旧市名。 1967年市制。 2001年1月に保谷市と合併し,西東京市となった。地名は水田がなかったことに由来するといわれる。慶長 11 (1606) 年江戸城大修築のため開かれた青梅街道の宿場町として発展。 1927年西武鉄道開通後は都心との結びつきが深まり,東京大学農学部実習農場,演習林が設けられ,宅地化も進展。第2次世界大戦中に航空機製造工場が誘致された。現在は金属,時計,機械などの工場がある。戦後,北部に住宅・都市整備公団 (→都市再生機構 ) のひばりが丘団地ができ,都営住宅団地や社宅なども多い。

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改訂新版 世界大百科事典 「田無」の意味・わかりやすい解説

田無 (たなし)

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世界大百科事典(旧版)内の田無の言及

【沖縄[県]】より

…その上から〈衣〉を着て,合わせた上前(うわまえ)の右腰部分を,下袴に締めてある小帯に,上から押し込むようにして挟み込む着装法である。1920年代ころまでは士族の女性は家居の場合でも威儀を正した服装で,夏季も〈衣〉の上に帯を締め,その上から田無(たなし)という絽地花織(花倉織)の夏季用打掛を着ていたという。明治時代の沖縄の絵画や大正時代から現代にいたる沖縄の写真資料にしばしば〈衣〉の前の打合せが左前(左衽(さじん))になっているのがあるが,中国の服装文化と日本の服装文化とのなんらかの影響が,現代にこういう現象となって残されているのだと思われる。…

※「田無」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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