畠山国清(読み)はたけやまくにきよ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山国清」の意味・わかりやすい解説

畠山国清
はたけやまくにきよ
(?―1364)

南北朝時代の武将。家国(いえくに)の子。左京大夫(さきょうだゆう)、修理(しゅり)大夫。法名道誓。内乱の過程を足利(あしかが)氏に従い活躍した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)の際に、初めは足利直義(ただよし)側にくみしたが、のち細川顕氏(あきうじ)の勧めにより尊氏(たかうじ)方となった。1353年(正平8・文和2)鎌倉公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)の執事(しつじ)となる。58年(正平13・延文3)には新田義興(にったよしおき)を武蔵矢口(むさしやぐち)の渡(わたし)(東京都大田区)に謀殺した。翌年足利義詮(よしあきら)の要請に応じて、東国大軍を率いて上洛(じょうらく)、楠木正儀(くすのきまさのり)の南軍と戦った。しかし仁木義長(にきよしなが)らと内紛を起こし、南軍の反撃を許す結果となった。60年京都を去って鎌倉に帰ったが、上洛に際しての大規模な軍事動員など、国清の専断に対する東国諸将の不満が高まり、ついに翌年、基氏により執事職を罷免され、鎌倉から追放された。伊豆の三津(みと)、金山(かなやま)、修善寺(しゅぜんじ)の諸城において基氏に反抗したが、衆寡敵せず、62年(正平17・貞治1)降伏した。時衆(じしゅう)の助けにより京都まで逃れたが、のち大和(やまと)に窮死したという。

[佐藤和彦]

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改訂新版 世界大百科事典 「畠山国清」の意味・わかりやすい解説

畠山国清 (はたけやまくにきよ)
生没年:1303-62(嘉元1-正平17・貞治1)

南北朝時代の武将。家国の子。1336年(延元1・建武3)和泉・紀伊守護に補任され南朝と戦う。49年(正平4・貞和5)河内・和泉守護に再任され,観応の擾乱には足利直義方に属し,51年(正平6・観応2)直義方優勢のなか引付頭人となる。政局の急変により直義とともに没落するが,同年のうちに尊氏方に転じ,53年尊氏に従い関東に赴き伊豆・武蔵守護に補任される。尊氏帰洛にともない関東執事に任命され鎌倉公方足利基氏を補佐する。58年(正平13・延文3)尊氏の没後は道誓と号し,南朝の将新田義興を討伐,翌年関東勢を率いて上洛し南朝・直冬党と畿内を転戦,河内・和泉・紀伊守護に補任される。60年関東に帰るが,61年(正平16・康安1)基氏の勘気を被り,伊豆で10ヵ月余り抗戦するが降参,弟義深は許されたが,国清はまもなく死去した(《畠山家記》は64年没とするが《両畠山系図》を採用した)。
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朝日日本歴史人物事典 「畠山国清」の解説

畠山国清

没年:貞治1/正平17.9(1362)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。父は家国。建武2(1335)年,足利尊氏追討の新田義貞軍を迎え討つ,足利直義の軍勢中にみえる。尊氏・直義に従って九州さらには畿内に向かい,京都を制圧したのち,和泉守護となる。次いで紀伊守護。尊氏の執事高師直と対立する直義に味方し,観応2/正平6(1351)年引付頭人。同年7月,直義と共に北国に下るが,情勢を見るに敏で,10月には尊氏に下っている。その後,伊豆守護,武蔵守護となり,文和2/正平8年,上洛せんとする尊氏により,鎌倉公方足利基氏補佐のため関東執事に任ぜられた。延文3/正平13年には武蔵矢の口で新田義興を謀殺,関東での南朝軍の根を摘む。翌年,基氏の意を受けて関東の軍勢を率いて上洛した。紀伊・和泉の南朝軍を駆逐し延文5/正平15年に鎌倉に戻るが,この間の長期におよぶ軍事活動を嫌って無断で関東に戻っていた武将の所領を没収しようとして武将らに訴えられ,翌年,基氏によって関東執事を罷免された。<参考文献>小川信『足利一門守護発展史の研究』

(石田晴男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畠山国清」の意味・わかりやすい解説

畠山国清
はたけやまくにきよ

[生]?
[没]正平19=貞治3(1364)
南北朝時代前期の関東執事 (在職 1353~61) 。家国の子。足利氏一門で,建武2 (35) 年足利尊氏が建武政権にそむいたときこれに従って活躍。正平5=観応1 (50) 年表面化した尊氏,直義の分裂には,直義側について行動したが,翌年関東へ逃れる直義のもとを去って上京,尊氏側についた。同年直義追討の尊氏軍に加わって関東へ下り,鎌倉公方足利基氏の補佐として鎌倉に残った。正平 14=延文4 (59) 年南朝攻撃のため関東軍を率いて上京,諸戦に功があったが,彼の強圧的態度が諸将の反発を買い,鎌倉に帰ってのち基氏軍に攻められ,正平 16=康安1 (61) 年伊豆に退いて反抗したが,流浪の末死んだ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「畠山国清」の解説

畠山国清
はたけやまくにきよ

?~1362

南北朝期の武将。家国の子。次郎。左近将監・修理権大夫・阿波守。法名道誓。建武政権離反以来足利尊氏に属し,開幕後は和泉・紀伊両国の守護や引付頭人を勤める。観応の擾乱でははじめ足利直義(ただよし)に属すが,まもなく尊氏に帰順。1353年(文和2・正平8)関東執事となり,鎌倉公方足利基氏を補佐した。59年(延文4・正平14)関東諸将を率いて畿内南朝軍の制圧にあたるが失敗。61年(康安元・正平16)執事を罷免されて没落。大和付近で没した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山国清」の解説

畠山国清 はたけやま-くにきよ

?-1362 南北朝時代の武将。
畠山家国の長男。和泉,紀伊(きい)の守護,引付頭人をつとめる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では,はじめ足利直義(ただよし)につきながら,のち足利尊氏にしたがう。文和(ぶんな)2=正平(しょうへい)8年関東執事となり鎌倉公方(くぼう)足利基氏を補佐するが,失脚し鎌倉から伊豆に追放された。貞治(じょうじ)元=正平17年死去。法名は道誓。

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世界大百科事典(旧版)内の畠山国清の言及

【伊豆国】より

…この武士は三島在住のものであろう。翌年尊氏が直義を殺害すると,伊豆守護には畠山国清が任命される。しかし国清は南朝攻略の失敗により鎌倉の足利基氏に失脚させられたことから反抗し,62年(正平17∥貞治1)2月神余(かなまり)(神益)城に籠城,ついで三津城,修善寺城で戦い敗走した。…

【紀伊国】より

…なお紀伊国の高野山領荘園には,南部(みなべ)荘などの例外を除き,地頭はおかれなかった。
[南北朝内乱と高野寺領の再編]
 南北朝内乱の初期は北朝方が断然優勢で,とくに守護畠山国清の活躍がめざましい。ところが14世紀中葉以降,北朝方の分裂に乗じて南朝方が息をふき返し,正平の年号が十数年にわたって続く。…

※「畠山国清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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