畠山太助(読み)はたけやま・たすけ

朝日日本歴史人物事典 「畠山太助」の解説

畠山太助

没年:明治6.5.28(1873)
生年:文化13(1816)
嘉永6(1853)年陸奥盛岡藩(岩手県)百姓一揆発頭人筆頭。野田通田野畑村肝入の分家に生まれ,畑仕事,山仕事,炭焼き,塩焚きなどの暮らしを送った。38歳のとき一揆の発頭人となり,「小○」(困る)の旗を考案,仙台領に逃散して願書を提出,南部藩の要求承認,処罰者なしの約束をとるまで代表45人で居残った。仲間が動揺すると「衆民の為に死ぬるは元より覚悟の事」と励ました。明治6(1873)年,地租改正に抵抗する運動の指導者と疑われ,拷問を受け,取り調べに使われた宿屋で自殺した。宿の主が「佐倉惣五郎のようだ」と讃えて自家の墓域に葬った。<参考文献>深谷克己『南部百姓命助の生涯

(深谷克己)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山太助」の意味・わかりやすい解説

畠山太助
はたけやまたすけ
(1816?―1873)

1853年(嘉永6)盛岡藩領三閉伊(さんへい)地方で起こった一揆(いっき)の指導者の一人。陸奥(むつ)国(岩手県)野田通田野畑(たのはた)村の人。藩の苛政(かせい)49か条と領主交替または仙台領か幕府領への変更要求を掲げて一万数千人が蜂起(ほうき)、約8000人が仙台領唐丹(とうに)へ逃散(ちょうさん)した一揆で、交渉のため残留した45人の代表に加わり、指導的役割を果たして藩政改善をかちとった。のち地租改正反対運動の首謀者として拷問され盛岡で縊死(いし)。

[難波信雄]

『森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』(1974・法政大学出版局)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山太助」の解説

畠山太助 はたけやま-たすけ

1816-1873 幕末-明治時代の一揆(いっき)指導者。
文化13年生まれ。陸奥(むつ)閉伊(へい)郡(岩手県)田野畑村の農民。嘉永(かえい)6年(1853)盛岡藩領の三閉伊(さんへい)地方でおこった一万数千人による百姓一揆を指導。一揆は仙台藩の斡旋(あっせん)で成功し,盛岡藩の藩政を改善させた。明治6年地租改正反対運動の首謀者として取り調べをうけ,同年5月28日自殺。58歳。名は多助とも。

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