白峯寺(読み)しろみねじ

日本歴史地名大系 「白峯寺」の解説

白峯寺
しろみねじ

[現在地名]坂出市青海町

白峰しろみね(三三六・九メートル)の山頂北側に位置し、北西に崇徳天皇陵がある。綾正山洞林院と号し、本尊千手観音、真言宗御室派。「拾芥抄」に「シラミネ」の訓が付されている。参詣道に元応三年(一三二一)銘の下乗石(笠塔婆、県指定文化財)があり、寺内に弘安元年(一二七八)および元亨四年(一三二四)銘の石造十三重塔二基(国指定重要文化財)、文永四年(一二六七)銘の石灯籠、鎌倉時代後期の石造五重塔、客殿、千体阿弥陀堂(以上県指定文化財)など文化財が多く、古刹の趣をただよわせる。また崇徳天皇陵守護のため建立された法華三昧堂(御影堂・頓証寺)が同陵との間にある。四国霊場八十八ヵ所の第八一番札所で、御詠歌は「霜さむく露白たえの寺のうちみなをとなうる法の声ごえ」。

応永一三年(一四〇六)清原良賢が撰述したという白峯寺縁起によれば、弘法大師空海・智証大師円珍の開創。まず空海が山を開き、貞観二年(八六〇)円珍が瑞光に導かれて山の守護神の老翁に会い、瑞光を発する霊窟に案内されてそこが慈尊入定の地であることを教えられた。その後円珍は山中をとそう、明神に出会ってともに一〇体の仏像を造立、四九院を草創した。一〇体の仏像のうちに四体の千手観音があり、一体を根香ねごろ(現高松市)、一体を吉水寺、一体を白牛寺、そして残りの一体を白峯寺に安置したという。以上の縁起から当寺が古くからの山岳密教寺院であったことがうかがわれるが、開山がどの時代までさかのぼるかはつまびらかでない。

当寺の名が広く知られるようになるのは、讃岐に配流されていた崇徳上皇が長寛二年(一一六四)八月鼓岡つづみがおかの御所で没し、当地に墓所が営まれて以後である。墓所を守護するため寺内に法華三昧堂が設けられたが、前掲縁起は崇徳院に近習した阿闍梨章実が御所を移建して堂となし、菩提を弔ったという。崇徳上皇の怨霊が祟るという流言は死後二〇年頃から本格化するが(→崇徳天皇陵、「玉葉」建久二年(一一九一)閏一二月一四日条によると、後白河上皇の病気平癒を祈願して崇徳上皇・安徳天皇らの死没地に一堂を建て菩提を弔うようにとの沙汰が下されており、二二日条によれば、崇徳陵の付近に一堂を建て仏像を置くことについて評議がなされた時、民部卿吉田経房が讃岐国では以前から仏寺が置かれ田園も寄せられているようだと述べているのは、縁起の伝えを裏付けているものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「白峯寺」の意味・わかりやすい解説

白峯寺 (しろみねじ)

香川県坂出市にある真言宗御室派の寺。綾松(りようしよう)山洞林院と号し,四国八十八ヵ所観音霊場の第81番札所。標高337mの白峰(しらみね)山の頂にあって風光明媚,古来山岳仏教の寺として栄えた。寺伝では弘法大師創建,智証大師再興と伝える。当寺西北に,保元の乱後,当地に流された崇徳上皇の陵(白峯陵)がある。中世,その廟堂として頓証(とんしよう)寺が寺内に建立され,これ以後,明治維新の神仏分離まで,当寺と頓証寺と陵は一体となって運営された。近世の寺領101石。頂上から本堂,大師堂,阿弥陀堂,行者堂,金堂,鐘楼,護摩堂,宝物館,庫裏,客殿,勅使門が整然と建ちならび荘厳をきわめ,また陵に接して旧頓証寺の本地堂(観音堂)と旧御廟鎮守社(相模坊)が残っている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「白峯寺」の解説

白峯(しろみね)寺

香川県坂出市、標高337メートルの白峰(しらみね)山の頂にある寺院。真言宗御室派別格本山。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第81番札所。十三重石塔は国の重要文化財に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android