皆川広照(読み)みながわひろてる

改訂新版 世界大百科事典 「皆川広照」の意味・わかりやすい解説

皆川広照 (みながわひろてる)
生没年:1548-1627(天文17-寛永4)

安土桃山~江戸初期の武将通称三郎。山城守。下野国皆川を本領とする国人領主で,1582年(天正10)はじめて徳川家康に会見し,武田氏攻撃の陣に出動。86年北条氏政と戦ったが,家康仲介で和睦し氏政に属する。90年の小田原征伐で家康に投降し,本領1万3000石を安堵された。1603年(慶長8)松平忠輝補佐の臣となり,信濃国飯山7万5000石を領する。09年忠輝の行状幕府に訴えたが,かえって改易となった。23年(元和9)許されて家光に付属し,常陸国府中で1万石を与えられた。25年(寛永2)致仕し御咄衆(おはなししゆう)となる。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「皆川広照」の解説

皆川広照 みながわ-ひろてる

1548-1628* 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天文(てんぶん)17年生まれ。下野(しもつけ)(栃木県)皆川城主。北条氏に属し,小田原攻めのとき徳川家康に投降。その6男松平忠輝の守り役をつとめ,信濃(しなの)(長野県)飯山城主となる。慶長14年(1609)忠輝をいさめて改易(かいえき)されたが,大坂の陣の功でゆるされ,元和(げんな)9年(1623)常陸(ひたち)(茨城県)府中藩主皆川家初代となった。1万石。寛永4年12月22日死去。80歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の皆川広照の言及

【下野国】より


[中世領主の没落]
 豊臣秀吉の小田原征伐は1590年4月からはじまり,下野を代表する領主たちは,家運を賭しての二者択一をせまられた。小田原本城に手兵を率いて籠城軍に加わったのは,壬生城主の壬生義雄,皆川城主の皆川広照,足利城主の長尾顕長たちである。小田原城はこの年7月5日には開城したが,それまでに皆川広照は徳川家康の内応工作に乗り,手兵100余名を率いて出城していた。…

【皆川氏】より

…下野出身の中・近世武家。小山氏一族。小山政光の次男長沼宗政の孫,宗員が下野国都賀郡皆川荘に住して,皆川四郎左衛門尉を称したのに始まる。その子孫はやがて皆川の地を失い,室町期には代わって,宗員の弟長沼宗泰の系統が皆川城に拠って皆川氏を称するに至った。その後裔俊宗の子広照は宇都宮氏,佐竹氏,小田原北条氏に対抗,1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐に際しては,小田原城にこもった。しかし4月8日に城を出て降ったため,秀吉は本領皆川1万3000石を安堵し,徳川家康に属させた。…

※「皆川広照」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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