真光寺(読み)しんこうじ

日本歴史地名大系 「真光寺」の解説

真光寺
しんこうじ

[現在地名]渋川市 並木町

天台宗で威徳山無量寿院と号し、本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至両菩薩。古くは信光寺とも記された(双林寺伝記)。天台僧叡海によって応永(一三九四―一四二八)頃に開山されたと伝え、江戸時代初期の中興開山乗存は自らを一七世と称した。応永頃、吾妻あがつま川対岸の白井しろい(現北群馬郡子持村)には上野国守護上杉氏の被官長尾昌賢景仲が在城した。景仲は当寺に相州江島弁財天(現神奈川県藤沢市)を勧請し、道場には丈六の阿弥陀像を安置したという(双林寺伝記・長尾系図)。叡海は道場である談義所を開設した。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]兵庫区松原通一丁目

清盛きよもり塚の北西にある。かつて寺の東は須佐すさの入江とよばれた入海であったが、近世末には入江も埋まり、現在では住宅街の一角となっている。境内は広く樹木も多い。時宗。山号は西月山、本尊は宗祖一遍智真。正応二年(一二八九)一遍が没した地で、もと観音堂があった。正安元年(一二九九)成立の「一遍上人絵伝」によると、一遍は正応二年六月阿波で発病、淡路島を経由して七月一八日明石へ渡り、兵庫からの迎えの船で兵庫観音堂へ入った。観音堂では兵庫光明福こうみようふく(廃寺)方丈も病床に侍していた。臨終のせまった八月二二日は広田ひろた・西宮(現西宮市)の神幸祭で輪田わだ岬へ神輿の渡御があり、見舞いに訪れた神主に最後の十念を授け、翌二三日五一歳の生涯を閉じた。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]和歌山市打越町

光明山法泉院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。安政六年(一八五九)に死去した当寺二〇代住職遵賢が記した由緒書(寺蔵)によると、楠木正成の甥和田新発意源秀が嘉暦三年(一三二八)二月に真言宗寺院として泉州嘉祥寺かしようじ(現大阪府田尻町)に建立し、康永元年(一三四二)三月二八日に本願寺三世覚如の教化で浄土真宗に改宗したとされる。また覚如は同年三月・四月に当寺に逗留したという。これは「慕帰絵詞」にある覚如の紀州和歌浦来訪の行き帰りに立寄ったことを意味するものと思われる。しかし江戸時代の当寺は京都西本願寺の直末ではなく、興正こうしよう(現京都市下京区)下の中本山であった。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]梓川村大字梓 寺家

梓川村上野うえの穴沢あなざわ山の東麓にある。山号、西牧山、永平寺直末。阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来像(重要文化財)の像内背部墨書銘によれば、信心大檀那は滋野兼忠女大施主橘氏で、嫡男滋野兼茂・二男滋野二郎等の名が記録され、建仁三年(一二〇三)三月一〇日に脇侍の菩薩像二体とともに造立したとある。左脇侍の観音菩薩像は右脇侍の勢至菩薩像にならって室町期に制作されたものである。享保九年(一七二四)の「信府統記」によると、高野山金剛頂院の末寺で、建仁年中の草創で、天文一五年(一五四六)大檀那滋野讃岐守貞兼、法名海巌淵成了源大居士が中興開基し、寺中の阿弥陀堂の開基も同じとしている。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]今治市東村

上須加かみすかにある。海松山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来は高さ六六センチ、鎌倉末期の素地像として注目される。寺伝によると天智天皇の遺詔により道昭を招き、作礼山仙遊せんゆう(現越智郡玉川町)の別寺として開山したもので、小千守興の祈願所であった。創建の頃は海松山知足院新興寺と号し、本尊は大日如来であった。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]柳津町冑中

冑中かぶちゆうにあり、山門は西面し、眼下に不動ふどう滝を望む。長華山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。古くは岩松山と号した(会津鑑)。現在は無住寺で、会津坂下あいづばんげ西青津の光明にしあおづのこうみよう寺が兼務する。「異本塔寺長帳」天文一六年(一五四七)条に「会津蕪中邑真光寺ヲ僧宗岑建天寧寺賢渓ヲ開山ニス」とある。現存する過去帳扉に「開基宗岑大和尚天文元年入山同十六年七月十七日寂、開山蘭渓善尊大和尚寛永二十年三月十日入山延宝五年六月十三日寂」とある。蘭渓は天寧てんねい(現会津若松市)第一五世で、このとき以来同寺の末山に属することになる。「新編会津風土記」にもみえる古館跡を、地元ではあん寺跡とよぶ。礎石が確認され住居の跡であることは歴然としている。

真光寺
しんこうじ

井川町の井内いうちにあったとされる寺院。正確な所在地は不明だが、井内字むかいの柿窪家の屋敷南側にあったという伝承がある。同地には石垣が高く積まれ、祠があり樒が茂っている。井内の地福じふく(現真言宗御室派)に伝来している大般若経巻第六〇〇には明応九年(一五〇〇)の修理銘があり、「於阿州井内真光寺、此大般若再興人数宥空、宥祇、宥成、勢義、宥琳、円阿弥、宥良勧進了者也」とみえる。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]信濃町古海 滝屋

西本願にしほんがん寺末、斑尾山と号す。古海盆地の北縁中央部の滝屋たきや地籍にある。寺伝によれば、野尻のじりの真光寺と同じ岩尾明真を開基としている(「明治一二年信濃国寺院明細帳」長野県庁蔵)。従って、天和二年(一六八二)飯山いいやま領の寺社領由緒書(西敬寺蔵)によれば、釈善秀の越後国木島から古海(西浦の地)移住は慶長年間(一五九六―一六一五)のこととされるが、また同文書に、本寺は大永五年(一五二五)、願主慶信の建立と書き上げており、しかも文禄四年(一五九五)七月の裏書を記す阿弥陀如来の「方便法身画像」を伝えているので、慶長年中の古海移住はにわかには信じがたい。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]信濃町野尻 寺山

西本願寺末。現国道一八号に面し、寺山地籍にある。天和二年(一六八二)四月、一四世釈利貞が飯山領主松平忠倶に提出した寺社領由緒書(西敬寺蔵)によれば、開基は岩尾明真、四郎冠者千那丸と号し、志摩守五代の孫にあたる。寛正年間(「長野県町村誌」「信濃町誌」ともに寛正三年とする)、釈恵善が、越後国府中に住み当寺を草創。釈善秀(照光寺三男真光寺を継ぐとあるが、照光寺は永禄元年古海ふるみ村内ノ巻から移住した越後国小出雲村の照光寺か)の時の慶長年中(一五九六―一六一五)、古海に移住し、釈教生の時の慶安三年(一六五〇)、古海の旧跡を改めて野尻に移り住したという。

真光寺
しんこうじ

[現在地名]鹿屋市横山町

飛龍山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。明治九年(一八七六)九月信教の自由令が発布され、真宗禁止が解除されると、同一三年平川真徹(現福岡県光明寺の九世嶺成の弟漢水の長男)大隅半島の開教に従事した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「真光寺」の意味・わかりやすい解説

真光寺【しんこうじ】

兵庫県神戸市にある時宗の寺。時宗の開祖一遍(いっぺん)入寂ゆかりの寺。一遍は1289年8月観音堂で入寂。当寺は観音堂の跡地と伝え,一遍が荼毘に付された地に建てられたという石造五輪塔がある。一遍および他阿(たあ)上人の伝記を記した紙本着色遊行縁起10巻は,1323年三井寺僧行顕(ぎょうけん)が詞書を書いたもので重要文化財

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デジタル大辞泉プラス 「真光寺」の解説

真光寺

岡山県備前市にある寺院。本堂、三重塔は国の重要文化財に指定されている。

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