石井亮一(読み)いしいりょういち

改訂新版 世界大百科事典 「石井亮一」の意味・わかりやすい解説

石井亮一 (いしいりょういち)
生没年:1867-1937(慶応3-昭和12)

日本最初の精神遅滞者施設滝乃川学園創設者。日本の精神遅滞者福祉の父と称すべき人。鍋島藩家臣の家に生まれる。佐賀中学校を卒業し,1884年立教大学に進学。在学中,学長で日本聖公会初代主教C.M.ウィリアムズの人格感化に浴し,キリスト教入信。卒業の翌年,立教女学校の教頭に就任,かたわら東京救育院(孤児院)の運営にあたる。91年濃尾地震の被災孤児をひきとり,日本聖公会等の援助を得つつ,孤女学院(滝乃川学園の前身)を創設。ここで,知能に障害のある少女との出会いが一つの契機となって,本院の精神遅滞児施設化を決意,妻筆子と共に生涯をこの子らの保護と教育ささげる。高潔な人格,深い学殖,キリスト教の信仰と愛に貫かれた献身的な行動によって,精神遅滞者の保護・教育事業に携わろうとする者に大きな感化を与えた。1934年日本精神薄弱児愛護協会の初代会長となる。《白痴児其研究及教育》(1904),《石井亮一全集》全3巻(1940)などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石井亮一」の意味・わかりやすい解説

石井亮一
いしいりょういち
(1867―1937)

社会事業実践家。とくに知的障害児教育に先駆的役割を果たした。佐賀県生まれ。築地(つきじ)立教学校(現、立教大学)在学中に受洗、熱心なキリスト教信者となる。立教女学院の教頭となったが、1891年(明治24)の濃尾(のうび)地震に際し、知的障害児を含む孤児20余名を引き取り、孤女学院を創設、これがのちに日本最初の知的障害児施設滝乃川学園となる。とくに知的障害児の教育に強い関心をもち、アメリカ各地の知的障害児施設を見学し、その処遇方法の研究、教育実践に専念。その成果は『白痴児、その研究および教育』(1904)として刊行。宗教教育と生理学、心理学の科学的方法を知的障害児教育の理論と実践の両面に生かし、また日本精神薄弱児愛護協会の結成など、一生を知的障害児問題の解決に捧(ささ)げた。

[小倉襄二]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石井亮一」の解説

石井亮一 いしい-りょういち

1867-1937 明治-昭和時代前期の社会事業家。
慶応3年5月25日生まれ。築地(つきじ)立教学校(現立大)在学中にキリスト教に入信。立教女学校につとめ教頭となる。明治24年濃尾大震災の孤児をひきとり,孤女学院(のち滝乃川学園)をつくる。知的障害児の教育にもつくした。昭和10年東京府児童研究所所長。昭和12年6月13日死去。71歳。肥前佐賀出身。著作に「白痴児―其研究及教育」。

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百科事典マイペディア 「石井亮一」の意味・わかりやすい解説

石井亮一【いしいりょういち】

精神発達遅滞児教育の先駆者。佐賀の出身。立教学校(現,立教大学)に学びクリスチャンとなり,1891年濃尾地震の際,孤児をひきとり孤女学院(のち滝乃川学園)を創立。精神発達遅滞児の研究のため米国留学,帰国後は精神発達遅滞児教育に専念した。主著《白痴児其研究及教育》(1904年)。

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世界大百科事典(旧版)内の石井亮一の言及

【滝乃川学園】より

…日本最古の精神遅滞児収容施設。1891年立教女学校の教頭であった石井亮一が,濃尾地震によって家を失い,両親を亡くした女子の養育のために,日本聖公会,アメリカ聖公会の援助も得ながら,自宅に〈聖三一孤女学院〉として創設。院生のなかの知能に障害をもつ児童の指導に苦心を重ねていくうちに精神遅滞児への関心が強まり,渡米してその保護・教育事業を視察,研究(E.O.セガンの生理学的教育など)した。…

※「石井亮一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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