社会事業家。宮崎県生まれ。高鍋藩の明倫堂に学び、東京芝の攻玉社(こうぎょくしゃ)中退。郷里の上江(うわえ)小学校教師を経て1882年(明治15)岡山甲種医学校入学。1884年岡山教会で金森通倫から受洗、ジョージ・ミュラーGeorge Muller(1805―1898)の講演に感銘、孤児を引き取り日本孤児教育会(岡山孤児院)を創設した。医学書を焼き捨て医学校を退学、郷里の茶臼原(ちゃうすばる)に60町の原野を購入し、1897年岡山孤児院尋常高等小学校創設、倉敷紡績社長の大原孫三郎が事業の援助者となった。1906年東北の凶作に際し、貧困児童1200名を収容した。キリスト教信仰を基盤に、二宮尊徳の精神を取り入れ、勤勉・貯蓄・自活の精神を尊重した。
[岡部一興]
『『石井十次日誌』(1956~1983・石井記念友愛社)』▽『柴田善守著『石井十次の生涯と思想』(1978・春秋社)』▽『同志社大学人文科学研究所編『石井十次の研究』(1999・角川書店)』
(篠崎恭久)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治期を代表するキリスト教慈善事業家で,孤児院の創設者。高鍋藩(現,宮崎県)の下級士族の家に生まれた。東京芝の攻玉舎中学を中退し,郷里で荒野開拓事業をしたり警察官になったりしたが,病を得てキリスト教徒の医師と出会い,岡山県甲種医学校に入学した。在学中の1887年,貧児孤児教育を志し,中退して岡山孤児院を創設した。濃尾地震の孤児収容後は千数百人の巨大施設となり,郷里の茶臼原に開拓農場を経営して,孤児を移した。その誠実な実践に多くの支援が寄せられたが,晩年には孤児院自体の存在理由に疑問を抱き,寄付金を拒否して,茶臼原における労作教育に尽力し,独立心の養成に心をくだいた。しかし,その小舎制や依託制度の試みは,日本最初のものであり,施設収容万能の考え方に疑問符をうった点にも歴史的意義がある。
執筆者:土井 洋一
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…在学中足尾銅山の鉱害地を視察して,企業の社会的責任を痛感,中退して郷里へ帰る。帰郷後,石井十次に接してキリスト教に入信した。倉敷を東洋の聖地にすべく育英事業の大原奨学会や倉敷教育懇話会の設立など社会事業に奔走した。…
…74年の制定以来,1932年まで半世紀以上も続いた〈恤救(じゆつきゆう)規則〉は13歳以下の極貧孤児に対し,1年につき米7斗を支給するという制度を盛り込んでいた。 明治年間,少年保護施設や育児施設が設立され始めたが,代表的な育児施設としては石井十次による岡山孤児院(1887)があり,民間感化院としては,留岡幸助による家庭学校(1899)があった。カトリックに基づく施設としては,横浜慈仁堂(1872),浦上養育院(1874),函館聖保禄女学校(1878)等がある。…
※「石井十次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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