石動山(読み)せきどうさん

日本歴史地名大系 「石動山」の解説

石動山
せきどうさん

能登半島の基部、鹿島町石動山・二宮にのみや、七尾市、富山県氷見市にまたがる標高五六五メートルの山塊。山頂は円錐形で大御前おおごぜんまたは御前山という。山容は南東氷見市側の稜線が比較的なだらかな傾斜をもつのに対し、北西の七尾市・鹿島町側の稜線は傾斜が急で、非対象形の山塊となっており、山中には多数の断層がみられ、地滑りが多い。山頂周辺は県有保安林で、尾根筋にはブナの自然林や冷温帯植物の群生地などがあり、原生林相をもつ山としても評価されている。山頂からの眺望がよく、東に富山湾を隔ててたて山連峰や日本アルプスの山々、眼下には富山湾有磯ありそ海に浮ぶあぶヶ島やから島、優美な二上ふたがみ山の山容、北に転ずれば七尾湾の入江や能登島を指呼の間に眺め、さらに遠く能登半島岬の山並が続く。南には白山、晴れた日には遠く佐渡が望まれ、能登半島国定公園になっている。

古くは「いするぎやま」「ゆするぎやま」とよばれ、山上には延喜式内社に比定される伊須流岐比古いするぎひこ神社が鎮座する。全域が鎌倉時代には石動寺、室町時代は天平てんぴよう(てんぺいじ)を号した山岳信仰の拠点で、全国でも著名な修験系寺社のうちに数えられていた。天平寺の寺坊群跡や、戦国時代の土塁や堀跡などが数多く残り、国の史跡に指定される。登山道は二宮口が表参道で、旧内浦街道の登り口に「石動山本社迄従是五十八町」と刻した石柱(高さ二メートル)が建つ。ほかに七尾市の多根たね口・コロサ口、氷見市の角間かくま口・大窪おおくぼ口・平沢ひらさわ口・長坂ながさか口があって俗に石動山七口といわれるが、現在は旧道を利用した林道が開発され、二宮口から石動山を経て氷見市灘浦なだうら海岸の中田なかたわきへ通ずる幅員四―六メートルの道路が整備されている。

〔草創期〕

「拾芥抄」によると石動寺の本尊は虚空蔵菩薩で、宝亀四年(七七三)智徳の開創という。一四―一五世紀頃成立の「神道集」は、能登国石動権現を男女両体(男体は本地虚空蔵菩薩、女体は本地如意輪観音)とする本地説話を載せ、権現の功徳を病衆に平癒の薬種を与えたこととし、ほかに七社の王子として七仏薬師の利益を説いている。「義経記」巻七には、奥州に向かう源義経主従一行が直江なおえ(現新潟県上越市)を船出して越後の沖で風波にあい、珠洲すず岬のほうへ吹戻されようとしたとき「能登国石動の嶽」から西の順風が吹き、無事海難を逃れたとある。

貞応三年(一二二四)以後と推定される宣陽門院所領目録(島田文書)に、祈願所として「石動山」とみえ、京都長講堂領上日本あさひほん庄・同しん庄とともに承久の乱で後鳥羽上皇から没収されたのち、後白河法皇の皇女宣陽門院覲子に伝えられた。

石動山
せきどうさん

氷見市の北方に連なる県境山脈の中央部にそびえ、標高五六五メートル。主峰は円錐形をなし、氷見市内の大部分の地点から望見しうるので、昔から氷見地方の民衆に親しまれてきた。農業用水の水源の山として、また漁業では定置網の位置を決める目印の山(山目)としても大切な山とされた。神体山としてもあがめられ、頂上には延喜式内社・能登国二宮でもある伊須流岐比古いするぎひこ神社(現石川県鹿島町)が祀られる。古縁起によれば、太古万物の生命をつかさどる星が三個に割れて地球に落下し、その一つが山に落ち、全山が震動したので、石動いしゆるぎ山と名付けられたという。その石は動字石といわれ、今も神社の社前にあり、神聖視されている。イシユルギからイスルギとよばれ、後世音読によってセキドウサンとなった。伊須流岐比古神とは石動山に祀られる男神の意味である。石動山縁起には新古二種ある。古縁起によると、伊須流岐比古神社は崇神天皇の代に創建されたといい、その頃インドから飛来した方道仙人が石動山に登り、神社の脇に道場を開き、山中の岩窟で仙法を修行したと記す。古縁起はおよそ南北朝時代に原本ができたようである(「鹿島町史」石動山資料編)。新縁起は承応三年(一六五四)加賀藩三代藩主前田利常の要請により、儒者林羅山が執筆したもので、泰澄が白山を開いたのちに石動山に登り、白山神を石動山に勧請したとする。石動彦神(男神)と白山姫神(女神)は夫婦神とされ、一つの神殿に祀られた。泰澄は石動山開山としてあがめられ、七月七日の開山忌が営まれてきた。

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改訂新版 世界大百科事典 「石動山」の意味・わかりやすい解説

石動山 (いするぎさん)

石川県北部にある山。標高564m。宝達丘陵の一峰で,〈せきどうさん〉〈ゆするぎさん〉とも呼ばれる。能登・越中の国境に位置し,式内社伊須流岐比古神社がまつられるほか,修験道の山としても知られ,石動寺(天平寺)があった。中世には360坊,3000人の衆徒を擁すると俗に称されるほどの大勢力をもっていたが,1335年(建武2),1582年(天正10)の2度の戦火にあって一山は灰燼に帰し,中世以前の石動山信仰史の解明を困難にしている。また山岳を中心とした修験者たちの里修験化を促す一つの契機ともなった。1597年(慶長2)に再興され,1780年(安永9)には綸旨を得て北国7ヵ国を産子(うぶこ)として知識米を徴収する権利が確認された。実際にどの範囲にまで及んでいたかは不明であるが,能登・越中では〈石動山三升〉と称されるように,軒なみ3升を徴収し,これが石動山の経済的基盤の一つとなっていた。石動山は白山信仰をはじめ各種の信仰を取り入れ,中世には五社権現を成立させた。その信仰は日本海側の各地に広く伝播しているが,これは石動山が日本海を航行する船のヤマアテとなっていることとも関係があろう。
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石動山 (せきどうさん)

石動山(いするぎさん)

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国指定史跡ガイド 「石動山」の解説

せきどうさん【石動山】


石川県鹿島郡中能登町にある祭祀遺跡。石動山は能登半島の基部、石川県と富山県の県境にまたがる標高565mの山で、古来、山岳信仰の霊場であった。神仏習合思想が盛行する中世には、北陸7ヵ国に勧進地をもち、式内社である伊須流岐比古(いするぎひこ)神社(五社権現とも称された)の社殿のほか、院坊360余り、衆徒約3000人の規模を誇ったと伝えられる。南北朝時代以降、数度の兵乱にあい、焦土と化したが、戦国時代末期に前田氏が復興をはかり、全山を石動山天平寺と号して雄大な堂塔伽藍(がらん)・僧坊を再建した。以後、江戸時代を通じて前田氏の庇護の下で隆盛をきわめたが、1868年(慶応4)の神仏分離令を契機に衰退に向かった。石動山には元禄年間(1688~1703年)の棟札をもつ神社社殿が残り、中世の院坊跡の遺構が確認され、1978年(昭和53)に国の史跡に指定された。現在は、石動山天平寺を支配する別当寺・大宮坊の書院台所棟・番所・厠(かわや)・御成門・台所門・板塀・勅使橋などの建造物や、本堂跡・証誠殿・庭園跡などが復元・整備され、大宮坊の向かいには石動山資料館がある。JR七尾線良川駅から車で約30分。

いするぎやま【石動山】


⇒石動山(せきどうさん)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石動山」の意味・わかりやすい解説

石動山
せきどうさん

石川県北東部、鹿島(かしま)郡中能登町(なかのとまち)にある山。標高564メートル。富山県境に近い。花崗(かこう)岩と片麻(へんま)岩を主とするが、石灰岩もあり、セメント、生石灰の原料に利用され、現在も山麓(さんろく)の一部で採石される。頂上付近には『延喜式(えんぎしき)』の古社伊須流岐比古神社(いするぎひこじんじゃ)とその別当寺の石動山天平寺(てんぴょうじ)の遺跡がある。天平寺は奈良時代泰澄(たいちょう)の開山とも伝え、古代から中世にかけて僧坊360余、僧3000人、加賀、能登(のと)、越中(えっちゅう)その他7か国に知行(ちぎょう)四万余石をもち、修験(しゅげん)の拠点として栄えた。足利(あしかが)軍、さらに前田利家(としいえ)により弱体化し、明治初年の神仏分離で没落した。国の史跡に指定されている。標高500メートル付近に石動山集落があり、明治後期には56戸を数えたが、過疎化で11戸(1980)に減じ農林業に従事した。県有林が広く、植林に力を入れている。山頂からは能登半島、北アルプスの展望に優れ、能登半島国定公園、碁石ヶ峰(ごいしがみね)県立自然公園に属し、ハイキングコースになっている。

[矢ヶ崎孝雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石動山」の意味・わかりやすい解説

石動山
せきどうさん

石川県能登半島南部,宝達丘陵の北部にある山。中能登町に属する。標高 564m。古くは「いするぎやま」「ゆするぎやま」と呼ばれた。養老1 (717) 年僧泰澄が開いたといわれる天平寺,伊須流岐比古 (いするぎひこ) 神社のあった地で,真言宗の大霊場として盛時には僧坊 300を数えた。礎石と石垣が残り,国指定史跡。山体は花崗岩,片麻岩からなり,山頂一帯のブナの天然林は県有林として保護されている。能登半島国定公園に含まれ,山頂からは立山連峰,富山湾の眺望がよい。

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世界大百科事典(旧版)内の石動山の言及

【石動山】より

…能登・越中の国境に位置し,式内社伊須流岐比古神社がまつられるほか,修験道の山としても知られ,石動寺(天平寺)があった。中世には360坊,3000人の衆徒を擁すると俗に称されるほどの大勢力をもっていたが,1335年(建武2),1582年(天正10)の2度の戦火にあって一山は灰燼に帰し,中世以前の石動山信仰史の解明を困難にしている。また山岳を中心とした修験者たちの里修験化を促す一つの契機ともなった。…

【石動山】より

…能登・越中の国境に位置し,式内社伊須流岐比古神社がまつられるほか,修験道の山としても知られ,石動寺(天平寺)があった。中世には360坊,3000人の衆徒を擁すると俗に称されるほどの大勢力をもっていたが,1335年(建武2),1582年(天正10)の2度の戦火にあって一山は灰燼に帰し,中世以前の石動山信仰史の解明を困難にしている。また山岳を中心とした修験者たちの里修験化を促す一つの契機ともなった。…

【法道仙人】より

…法道仙人は医薬とも関係し,なかでも,和泉国の鉢ヶ峰山法道寺の法道仙人は,口のきけぬ開化天皇の皇子誉津別(ほむつわけ)命に言葉を言わせた験力ある仙人として,鎌倉末期の縁起に記載されている。誉津別命の話は,〈方道仙人〉が登場する能登国の石動山(いするぎさん)天平寺の中世末期の縁起にもある。石動山天平寺は北越地方の方道伝説の中心である。…

※「石動山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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