石田茂作(読み)いしだもさく

改訂新版 世界大百科事典 「石田茂作」の意味・わかりやすい解説

石田茂作 (いしだもさく)
生没年:1894-1977(明治27-昭和52)

仏教考古学者。瓦礫洞人と号した。学徳兼備の人で,仏教考古学を開拓,その体系化に貢献した。愛知県岡崎市の生れ。東京高等師範学校専攻科卒業後,1925年東京帝室博物館に入り,以来ここを研究本拠とした。30年発表の《写経より見たる奈良朝仏教の研究》は,8世紀の日本仏教の基礎文献として高い評価を得,39年には若草伽藍址を発掘,法隆寺の再建説を実証し,法隆寺再建非再建論争終止符を打った。41年の《飛鳥時代寺院址の研究》全3冊は,古瓦の編年を基礎に社会構造にまで言及した労作である。一方,正倉院研究の基礎資料《正倉院御物図録》全18輯を55年に完成,57年には奈良国立博物館長に就任して,仏教美術中心の館風を確立した。上記のほか,《経塚》《古瓦図鑑》《仏教美術の基本》《日本仏塔》《聖徳太子尊像聚成》,《仏教考古学論攷》全6冊など,多くの著作を遺している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石田茂作」の意味・わかりやすい解説

石田茂作
いしだもさく

[生]1894.11.10. 愛知
[没]1977.8.10. 東京
仏教考古学者,文学博士。瓦礫洞人と号す。東京高等師範学校専攻科卒業。島地大等,三宅米吉高橋健自らに師事。 1925年東京帝室博物館に奉職。同学芸部長を経て奈良国立博物館館長に就任 (1957~65) 。文化財保護委員会委員,文化庁文化財保護審議会委員,東京国立博物館評議員,日本考古学会副会長,聖徳太子奉讃会理事,正倉院評議員,法隆寺保存委員などをつとめる。仏教考古学の樹立者で,その貢献に対し,65年朝日賞,74年文化功労者に選ばれた。主著に『写経より見たる奈良朝仏教の研究』『飛鳥時代寺院址の研究』『仏教美術の基本』『日本仏塔』『聖徳太子尊像聚成』『仏教考古学論攷』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田茂作」の解説

石田茂作 いしだ-もさく

1894-1977 昭和時代の考古学者。
明治27年11月10日生まれ。昭和14年法隆寺の若草伽藍(がらん)跡を発掘して再建説を立証。32年奈良国立博物館長となる。仏教考古学の体系化につとめた。49年文化功労者。昭和52年8月10日死去。82歳。愛知県出身。東京高師卒。著作に「経塚」「飛鳥時代寺院址の研究」など。

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世界大百科事典(旧版)内の石田茂作の言及

【法隆寺再建非再建論争】より

…その後南大門の東にある若草伽藍の塔心礎が注目されるようになり,喜田も関野も天智9年焼亡の寺は若草(わかくさ)伽藍と考えるようになったが,喜田が若草伽藍の焼亡,西院伽藍の再建と考えたのに対して,関野は両伽藍が推古朝から併存したと考えた。39年足立康(1898‐1941)が関野と同様の二寺併存による非再建説を唱え,第2次論争がおこるが,同年12月石田茂作(1894‐1977)による若草伽藍の発掘と45年以来の金堂と塔の解体修理によって明らかになった新事実によって,論争は決着をみた。すなわち,(1)若草伽藍と西院伽藍の中心線の方向が16゜違うので,両者は併存しない。…

※「石田茂作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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