硯友社(読み)ケンユウシャ

デジタル大辞泉 「硯友社」の意味・読み・例文・類語

けんゆう‐しゃ〔ケンイウ‐〕【硯友社】

明治18年(1885)、尾崎紅葉山田美妙石橋思案らが結成した文学結社機関紙我楽多文庫がらくたぶんこ」を発行。巌谷小波いわやさざなみ広津柳浪川上眉山泉鏡花小栗風葉らが前後して加わり、明治20年代の文壇の主流となった。

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精選版 日本国語大辞典 「硯友社」の意味・読み・例文・類語

けんゆう‐しゃ ケンイウ‥【硯友社】

文学結社。明治一八年(一八八五)二月結成。尾崎紅葉を中心に、石橋思案、山田美妙、丸岡九華を同人に発足。のちに川上眉山、巖谷小波江見水蔭、広津柳浪らが加入。機関誌「我楽多文庫」を発行。写実的な文体手法で明治二〇~三〇年代の文壇に勢力を張ったが、明治三六年一〇月、紅葉の死とともに解体した。

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百科事典マイペディア 「硯友社」の意味・わかりやすい解説

硯友社【けんゆうしゃ】

近代日本最初の文学結社。1885年大学予備門の学生であった尾崎紅葉石橋思案,丸岡九華,山田美妙らと結成,当時流行の政治小説に対し芸術主義を標榜(ひょうぼう),機関誌《我楽多(がらくた)文庫》を発行した。やがて川上眉山巌谷小波(いわやさざなみ),江見水蔭広津柳浪大橋乙羽らが参加し,泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声らが台頭するなど,紅葉を中心に大きな勢力となって明治期の文壇を動かした。
→関連項目社会小説小説神髄文芸倶楽部

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「硯友社」の意味・わかりやすい解説

硯友社
けんゆうしゃ

1885年(明治18)2月、当時まだ大学予備門の生徒だった尾崎紅葉(こうよう)、山田美妙(びみょう)、石橋思案(しあん)らが創立した文学結社。「硯」は文筆にちなんだもの。最初は彼らのほか高等商業在学中の丸岡九華(きゅうか)らを加えた広義の文学愛好グループにすぎず、同年5月機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊したが、紅葉と美妙とが手分けして筆写回覧する小雑誌で、内容も小説、新体詩などのほか、狂句、都々逸(どどいつ)、落語、謎(なぞ)などまで掲載するような趣味的なものだった。しかし、しだいに同人が増え、86年11月から活版非売、さらに88年5月から公売となった。このころから同人は新文学の樹立を志し、結束を固めて文壇に打って出た。当時の同人には、前記紅葉らのほか、巌谷小波(いわやさざなみ)、川上眉山(びざん)、広津柳浪(りゅうろう)、江見水蔭(すいいん)、大橋乙羽(おとわ)らがあり、美妙はこの年離脱した。89年から「新著百種」の刊行が始まり、紅葉をはじめ各同人が執筆、文壇にその地歩を固め、「文壇の梁山泊(りょうざんぱく)」(坪内逍遙(しょうよう))と目された。

 以後、紅葉の入社していた『読売新聞』をはじめ、博文館春陽堂などのジャーナリズムを支配し、明治20~30年代の文壇を制覇した。他方、同人間の親交は厚く、しばしば旅行文士劇、文士講談などを催し、各種会合なども頻繁に行われた。しかし、20年代末から眉山らが疎遠となり、小波の洋行、水蔭の西下などが相次ぎ、やがて1903年(明治36)10月、紅葉の死によって、その結束も解体したとみられよう。

[岡 保生]

『『明治文学全集22 硯友社文学集』(1969・筑摩書房)』『福田清人著『硯友社の文学運動』(1933・山海堂)』『伊狩章著『硯友社の文学』(1961・塙書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「硯友社」の意味・わかりやすい解説

硯友社 (けんゆうしゃ)

明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月,東京大学予備門在学中の尾崎紅葉,山田美妙(びみよう),石橋思案(1867-1927)らが高等商業生徒の丸岡九華(きゆうか)らをかたらい創立した。同年5月から機関誌《我楽多(がらくた)文庫》を創刊,小説,漢詩,戯文,狂歌,川柳,都々逸(どどいつ)など,さまざまな作品を載せた。はじめ紅葉,美妙が筆写した回覧雑誌だったが,のち印刷し,さらに公売へと,部数も増加した。同人には,ほかに川上眉山,巌谷小波(さざなみ),江見水蔭,大橋乙羽(おとわ),広津柳浪らが加わった。初期には文芸を楽しむ遊戯気分が強く,その制作も近世の戯作調が濃厚だったが,しだいに新文学の創造に意欲的となり,美妙らの口語文体の実験につぎ,紅葉を中心に近代的な写実主義小説を相次いで文壇に送り,明治20年代を制覇した。いっぽう友情のあつい同人は紅葉を中心として結束し,文士劇や文士講談などもこころみた。1903年紅葉の死後,文壇での役割も失われ,いつしか解消した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「硯友社」の意味・わかりやすい解説

硯友社
けんゆうしゃ

文学結社。 1885年2月,大学予備門 (のちの第一高等学校) の学生尾崎紅葉山田美妙,石橋思案と,高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を発行,たちまち明治文壇の一大結社となった。有力な同人に,川上眉山,巌谷小波,江見水蔭,広津柳浪などがいたが,美妙の脱会 (1888) ,紅葉の名声により,次第に紅葉中心の結社に性格を変え,泉鏡花,小栗風葉,柳川春葉,徳田秋声らの新人が育った。近代写実主義と江戸戯作文学とを折衷し,明治後期に自然主義文学が台頭するまで,文壇の主流を形成していた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「硯友社」の解説

硯友社
けんゆうしゃ

明治期の文学結社。1885年(明治18)大学予備門の尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案,一橋高等商業の丸岡九華は回覧雑誌「我楽多(がらくた)文庫」発刊を決め,社名を硯友社とした。活版非売本・発売本,改名して「文庫」と変遷しながら89年の終刊までに43冊をだした。この間,川上眉山・広津柳浪・江見水蔭・大橋乙羽らが参加。美妙の脱退後「新著百種」の企画が成功し,90年代には文壇の中心勢力となる。紅葉門下に泉鏡花・小栗風葉・徳田秋声・柳川春葉らが結集。日清戦争後に深刻小説(悲惨小説)・観念小説をうんだが,1903年の紅葉の死を境に自然消滅した。趣味的文学観から出発し,西鶴模倣をへて写実主義へ発展した風俗小説といえるが,次代の文学を準備した功績は大きい。

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旺文社日本史事典 三訂版 「硯友社」の解説

硯友社
けんゆうしゃ

明治中期の文学結社(1885〜1903)
1885年,尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らが結成。のち川上眉山 (びざん) ・巌谷小波 (いわやさざなみ) ・江見水蔭 (すいいん) ・広津柳浪 (りゆうろう) らが参加。機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を発刊した。江戸文芸の伝統的趣味に近代的写実性を加え,一時文壇の中心勢力となったが,自然主義文学の興隆により衰退。1903年紅葉の死とともに解体した。

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世界大百科事典(旧版)内の硯友社の言及

【文士劇】より

…素劇(そげき)ともいう。1890年(明治23)東京小石川の佐藤黄鶴邸で,尾崎紅葉,江見水蔭(えみすいいん)(1870‐1934),巌谷小波(いわやさざなみ)らが,水蔭作の史劇を上演した硯友社(けんゆうしや)劇が最初。1905年には歌舞伎座で,杉贋阿弥(がんあみ),岡鬼太郎,岡本綺堂,小出緑水,岡村柿紅,伊坂梅雪,栗島狭衣(さごろも)らが〈若葉会〉を組織して上演し,世評を招いた。…

※「硯友社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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