神応寺(読み)じんのうじ

日本歴史地名大系 「神応寺」の解説

神応寺
じんのうじ

[現在地名]八幡市八幡高坊

おとこ山と谷を隔てた北方小丘上にある。山号は糸杉山、曹洞宗本尊薬師如来。石清水雑記(男山考古録)は寺記を引いて、「八幡大神雄徳山有御遷坐、而後男山北ニ応神天皇ノ御牌所トシテ、貞観年中ニ行教和尚一宇ヲ建立有テ応神寺ト号ス、四宗兼学天台、真言、法相、律之道場タリ、然ルニ何レノ頃ヨリカ曹洞宗峩山派トナリテ神応寺ト改ム、応神天皇並行教ト三昧ノ法施尊勝多羅尼闕コトナシ、于時天禄年中ニ郭翁鈞然和尚、新ニ常法堂ヲ置示シヨリ、叢林栄シニ、益々法灯ヲ耀シ侍ル云々」と記す。寺名については別説に、石清水いわしみず八幡宮(本宮)が宇佐神託に応じて遷座したことから、祖師住房の号としたともいう。

神応寺
じんのうじ

[現在地名]水戸市元山町一丁目

山門本堂は旧水戸城の外堀に対して東面し、間を道路が南北に走る。藤沢山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来創建は天正一九年(一五九一)開山の遊行三二代上人他阿弥陀仏普光は佐竹支族の久慈郡小野平おのだいら(現那珂郡大宮町)城主小野義高の三男で、元亀三年(一五七二)太田おおた(現常陸太田市)浄光じようこう寺住職となり、のち遊行三一代他阿同念に従い遊行、天正一二年遊行上人となったが、同一七年越後で他阿満悟に遊行上人の地位を譲り、藤沢上人となった。

これより先の永正一〇年(一五一三)時宗遊行派の本山相模国藤沢の清浄光ふじさわのしようじようこう(遊行寺)戦火で焼失した。

神応寺
じんのうじ

[現在地名]神郷町下神代

下神代の門前しもこうじろのもんぜんにある。霊感山と号し本尊延命地蔵。現在は臨済宗系の単立寺院だが、もとは京都東福寺末。開山は備中貞徳ていとく(跡地は現上房郡賀陽町)檀越備前守藤原景貞の俗兄高庵芝丘。芝丘は備後の人で姓は雅楽氏、東福寺四二世で同寺天応てんおう庵を開いている。応永八年(一四〇一)没。備中ではほかに宝福ほうふく(現総社市)真福しんぷく(現新見市)を開いた(東福寺諸塔頭并十刹諸山略伝・延宝伝灯録・瑞石歴代雑記)。芝丘の没した年の夏、将軍足利義満は神応寺を諸山に列し、芝中和翁を住持とした(不二和尚遺稿)。最勝光院方評定引付(東寺百合文書)の応永九年七月五日条には、新見庄の所務職を所望している水速入道(安富因幡入道とも)が、神応寺住持の書状を持たせて甥の代官平岡を上京させたという記述がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「神応寺」の意味・わかりやすい解説

神応寺【じんのうじ】

茨城県水戸(みと)市にある時宗の寺。1591年佐竹義宣(さたけよしのぶ)が焼失していた時宗遊行(ゆぎょう)派の本山藤沢清浄光(しょうじょうこう)寺に代わる本寺として遊行32代上人他阿弥陀仏普光(ふこう)を開山に招いて創建,藤沢道場と称した。1633年現寺名に改称。1680年現在地に移転

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