神戸村(読み)こうどむら

日本歴史地名大系 「神戸村」の解説

神戸村
こうどむら

[現在地名]貴志川町神戸

貴志川中下流左岸の氾濫原地帯に広がる。北は上野山うえのやま村、東は貴志川を隔て貴志北きしきた村の小野おの(現岸小野)。「続風土記」は「諸国に神戸といふ地、迦牟部かむべと訓し、又迦宇度かうどと称ふること尾張ノ国熱田にも其例あり、古郷名神門の遺名なるへし」と記す。字山畑やまはたに五世紀頃の築造と推定される缶子塚かんすづか古墳が、その東側には三昧塚さんまいづか古墳があり、また現在は消滅しているが権田ごんだ池の東に接して権田池古墳があった。古墳時代の住居跡と推定される神戸遺跡も発掘されている。中世は貴志庄に属したと思われる。

神戸村
こうべむら

[現在地名]中央区元町通もとまちどおり一―三丁目・栄町通さかえまちどおり一―三丁目・海岸通かいがんどおり一―三丁目・西町にしまち前町まえまち明石町あかしまち播磨町はりままち浪花町なにわまち海岸通かいがんどおり京町きようまち江戸町えどまち伊藤町いとうまち東町ひがしまち加納町かのうちよう五―六丁目・三宮町さんのみやちよう一―三丁目・北長狭通きたながさどおり二―三丁目・下山手通しもやまてどおり一―三丁目・中山手通なかやまてどおり二―四丁目・山本通やまもとどおり三丁目など

生田いくた川河口西岸、大阪湾に面し、六甲ろつこう山地南麓沖積地に立地する。山陽道が中央部を通る。「太平記」巻一六(経島合戦事)によると、建武三年(一三三六)五月、足利尊氏方の四国勢が大船七〇〇余艘で「紺部ノ浜」より上陸し、これを兵庫島の新田勢が迎え撃ったという。紺部は神戸のこととみられる。

慶長国絵図には山陽道上に「コウベ」とみえ、高四二四石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では上部村高四二四石余、幕府領。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]神戸町神戸

現町域の中央部に位置し、東は揖斐いび川を隔てて西座倉にしざぐら村、西は更屋敷さらやしき村・末守すえもり村、南は下宮しもみや村・川西かわにし村・新屋敷しんやしき村、北は丈六道じようろくどう村。中世には平野ひらの庄に属した。延暦寺領であったため山王権現(日吉神社)が勧請され、古くは小比叡こびえ村と称したという(新撰美濃志)。同社三重塔の修復上葺の際の寛政四年(一七九二)の棟札に「安八郡平野庄小比叡郷影向山善学院」とある。嘉吉三年(一四四三)一〇月日のものとされる法華会料未進徴符案(東大寺図書館蔵)大井おおい庄法華会料として「カムヘトノ八百廿九文」とみえる。これを神戸殿と解して当地の住人とし、古代における租庸調を神社に納める神戸かんべが村名の由来となったとする説がある(神戸町史)

明応二年(一四九三)一〇月二〇日の七郎衛門売券案(龍徳寺文書)に「神戸升にて御納可有候」、同八年一二月二八日の六郎右衛門尉売券案(同文書)にも「升ハ神戸升あるへく候」とあり、当地付近での神戸升の使用が知られる。永禄四年(一五六一)織田信長は西美濃に進攻し、同年六月に平野庄内の神戸市場に禁制(高橋宗太郎氏所蔵文書)を出して市場掌握を図った。

神戸村
かどむら

[現在地名]日南町神福かみふく

妙見みようけん(七二四・七メートル)の北東麓、東から北東に流れを変える九塚くつか川右岸に位置し、同川に北流する飛時原ひじはら川が合流する。九塚川対岸は宮田みやた村。「伯耆志」は支村として太田おおたを記し、村名は「カンヘ」(カンベ)からの転訛で、石見いわみ川上流の神戸上かどのかみ(神戸上村・石原村)に対しての下郷であろうとする。当村および神戸上村は「和名抄」にみえる日野郡神戸かんべ郷の遺称地とされ、東楽々福ひがしささふく神社・西楽々福神社の封戸と推定される(日野郡史・鳥取県史)正保国絵図には門村とみえる。拝領高は二五一石余、本免は五ツ九分。文化一二年(一八一五)悪田浮加損米四石余を免ぜられている(三輪家文書)

神戸村
かんべむら

[現在地名]津市神戸・美川みかわ

半田はんだ村の西、安濃あのう川平野の南端、岩田いわた川中流の南岸にある。背後の丘陵には、大正六年(一九一七)流水文銅鐸を出土した地があり、県史跡に指定されているほか、数基の古墳が散在している。村名は伊勢神宮の神戸に由来する。安濃の神戸は神宮創祀以来の神戸で(皇太神宮儀式帳)、「本神戸」と称され、「延喜式」に安濃郡三五戸とある。安東郡専当沙汰文に「一、神戸寄御田一町字音木をとき」の「神戸式部大副号能登安」「神戸侍従房」「神戸九郎兵衛子息」「神戸駒次郎」「神戸亀王兵衛」「神戸三位房」および「音木寄御田一町、神戸住丁部等」が籾・白米などを貢進している。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]諏訪市四賀しが 神戸

永明寺えいめいじ山の西麓にあり、北西は上桑原かみくわばら村、南東は上原うえはら(現茅野市)に接する。村内を北西から南東に甲州道中が通っている。村内の上原寄りに一里塚があった。御射山みさやま神戸(現諏訪郡富士見町)に対して、通称さと神戸ともよぶ。中世の「年内神事次第旧記」(守矢氏蔵)には「桑原の神戸」と記されている。天文一一年(一五四二)八月の武田晴信寄進状(如法院文書)によれば、晴信は神戸村のうち一段を、如法によほう(諏訪大社上社の別院別当寺)の灯明田として寄進している。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]敷島町神戸

安寺あてら村の北、あら川の支流亀沢かめざわ川流域にある。天正一〇年(一五八二)一一月一七日、神戸平六は徳川家康から長塚ながつか内三四貫文・鮎川九貫五〇〇文、歌田うただ(現山梨市)内夫一人を宛行われている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)。慶長七年(一六〇二)の菅口之内神戸村検地帳(県立図書館蔵)によると反別は畑七町二反余、屋敷二四二坪・屋敷数七。慶長古高帳では高二五石余。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高三二石余、畑一一町一反余・屋敷一反余。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳によると杣屋敷高役引二二石余。文化三年(一八〇六)の書上(中巨摩郡志)によると家数二〇・人数八一。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]東松山市神戸

都幾とき川を挟み上唐子かみがらこ村・下唐子村の南にあり、村域は都幾川右岸の低地から岩殿いわどの丘陵上に展開する。村の南から西にかけては丘陵、北から東にかけては都幾川が囲み、地名はこういった地形を表すゴウド(川渡・川戸・郷戸などと記す)に由来すると考えられる。田園簿では田高三八四石余・畑高一九九石余、相模甘縄藩領。元禄郷帳では高一千六四石余、国立史料館本元禄郷帳では大久保(勘解由)家など旗本三家の相給。

神戸村
じんごむら

[現在地名]津山市神戸

南東は院庄いんのしよう村、西を吉井川が流れる。西西条さいさいじよう郡に属し、元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方九一六石余・畑方一二一石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では一千二七四石余、うち改出高二一四石余・開高二一石余。東分と西分に分村しており、文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では東分六六〇石余・西分六一四石余。「作陽誌」によると九一戸・四八七人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では八〇戸・二八九人。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]飯山市大字瑞穂

犬飼いぬかい村に隣接した山懐の小集落で、中世には小菅こすげ庄に属し、現在も多量の温泉が湧出している。

「和名抄」の流布本によると、高井郡五郷のうちに「神戸かんべ」がみえる。この所在については明確を欠くが、郡内にそのなごりをとどめる地名として注目される。

村の西方字宮中みやなかの丘陵一帯は縄文時代後期の遺跡で石棺群が発見され、これに接する字猿飼田さるかいだは弥生時代の遺跡、その北に高井郡では最北端に位置する飯縄堂いいづなどう古墳がある。村は修験道場で知られた小菅神社の南参道入口にあたり、愛宕権現を祀る修験の金剛寺があり、字上平うわだいらには宝篋印塔をもつ良蔵坊屋敷を残し、その大門先には樹齢数百年に及ぶ大銀杏があり、「雪だめしの銀杏」と称して、県の天然記念物に指定されている。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]伊勢原市神戸・鈴川すずかわ

中央を鈴川が流れ、北はさんみや村・栗原くりはら村、東は白根しらね村、南は串橋くしはし村、西は坪内つぼのうち村に接する。矢倉沢やぐらさわ往還・大磯道・大山道・伊勢原道が通る。「風土記稿」によれば村名は三ノ宮村の比々多ひびた神社の神戸であったことに由来するという。小田原衆所領役帳には石巻彦四郎「買得四拾三貫文 西郡神戸作」とある。当村一帯は中郡に含まれるため「西郡」の記述に問題が残るが、通説では当地にあてられる。

近世の支配は宝永四年(一七〇七)旗本河内・榊原・蒔田・中根領の四給。元文二年(一七三七)九月の幕府代官斎藤喜六郎役所からの廻状(秦野市久保寺文書)によれば、当村をはじめ善波ぜんば村・坪内村・串橋村など一三ヵ村に対し鷹餌鳥札引替えが命じられた。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]東村神戸

小中こなか村の西、渡良瀬川右岸に位置。銅山あかがね街道が通り、字見沢みさわ辺りより南へ折れ、渡良瀬川対岸の座間ざま村への支道があった。字宿しゆくの太郎神社の側に銅山街道が残る。神戸の地名は、太郎神社の杉の大木(先年伐ったが、樹齢八〇〇年余であった)が戸のようになって悪い風を入れないので神の戸と名付けたといわれている。国鉄足尾線の駅名は兵庫県の神戸こうべと区別するため神土ごうどとしてある。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]松本市笹賀 神戸

小俣こまた村の北にあり、東は奈良井ならい川の沿岸に続く。

天正検地の時、三六七石一斗八升二合と高付けされ、寛永一五年(一六三八)神戸新田ごうどしんでんを分ける。享保九年(一七二四)当時の石高は四四七石四斗一升二合である。寛文年間(一六六一―七三)の水田は一九町八段二畝二九歩、畑地は一六町七段四畝八歩。慶安四年(一六五一)検地の時、本百姓二二、門百姓一〇である。

神戸村
ごうどむら

[現在地名]榛名町神戸

群馬郡に属し、下室田しもむろだ村の東にある。北は宮沢みやざわ村、東は三子沢みつござわ村、南はからす川を境に碓氷うすい中里見なかさとみ村。中央部を東西に大戸おおど(信州道)が貫通する。古くは榛名山榛名神社神領で、祝部居住の神戸であったことから地名が生じたと推定される。慶長七年(一六〇二)水帳手控(桜沢文書)によると田畑計一三町余・屋敷地三反余、高崎藩領。寛文郷帳では三河中島藩領、田方一一七石余・畑方六五石余。宝暦一〇年(一七六〇)の家数五〇・人数二二三(「宗門改帳」桜沢文書)

神戸村
ごうどむら

[現在地名]羽生市神戸

旧利根川の乱流原に残る自然堤防およびあいの川左岸の自然堤防上に位置する。東は町屋まちや村、南は同川を挟んで志多見しだみ(現加須市)。寛永八年(一六三一)幕府領代官による検地があり(風土記稿)、田園簿によると幕府領で、田高四二七石余・畑高四四六石余。宝永二年(一七〇五)から天明五年(一七八五)まで一部が旗本藤枝領となり(「寛政重修諸家譜」など)、国立史料館本元禄郷帳では同領と旗本戸田領のほか、熊野白山天神社領・千眼せんげん寺領があった。この間承応三年(一六五四)幕府領代官の検地、貞享四年(一六八七)甲斐甲府藩による検地があったと伝える。化政期には旗本戸田領と陸奥泉藩領(風土記稿)

神戸村
ごうどむら

[現在地名]川口市神戸

道合みちあい村の北に位置し、台地と低地が入組む。道合村・木曾呂きぞろ村の間に飛地がある。田園簿では田一一八石余・畑一〇一石余で、旗本初鹿野昌次領一七〇石・幕府領四九石余の相給。初鹿野氏は昌次の祖父昌久が徳川家康の関東入国後、足立郡ほかで七〇〇石を与えられた。昌久の子信吉は慶長一〇年(一六〇五)甲斐国(のち足立郡ほかに移される)の内で三〇〇石を与えられ、のち昌久の遺跡を継ぎ計一千石を領した。寛永二年(一六二五)昌次が七〇〇石を継承、三〇〇石を弟昌重に分知したという(寛政重修諸家譜)。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本初鹿野勘解由領・同清右衛門(伝右衛門か)領で、以後この三給のまま幕末に至る(改革組合取調書など)

神戸村
ごうどむら

[現在地名]富士市神戸

一色いつしき村の東、愛鷹あしたか山の西麓に位置する。古代の富士郡神戸かんべ(和名抄)の郷名を継承したという。慶長九年(一六〇四)一〇月の井出正次手形(富知六所浅間神社文書)に「拾八石七斗七升 神戸」とみえ、今泉いまいずみ村の東泉とうせん院領であった。同領として幕末に至ったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神戸村の言及

【西条[市]】より

…愛媛県東部,燧(ひうち)灘沿岸にある市。1941年西条,氷見の2町と飯岡,神戸(かんべ),橘の3村が合体,市制。人口5万7110(1995)。1636年(寛永13)より一柳(ひとつやなぎ)氏,70年(寛文10)より松平氏各3万石の所領で,城下町として発達した。陣屋跡には県立西条高校がある。南部には西日本の最高峰石鎚山(1982m)をはじめ高峻な山々が連なり,そこを源流とする加茂川が市域の中央を貫流し,北部には沖積平野が東西に広がっている。…

※「神戸村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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