神谷寿禎(読み)かみやじゅてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「神谷寿禎」の意味・わかりやすい解説

神谷寿禎
かみやじゅてい

生没年不詳。戦国時代の筑前(ちくぜん)(福岡県)博多(はかた)の貿易商、鉱業家。安土(あづち)桃山・江戸初期の豪商であり、茶人でもあった神谷宗湛(そうたん)は寿禎の曽孫(そうそん)にあたる。臨済僧で、1539年(天文8)の遣明(けんみん)副使であった策彦周良(さくげんしゅうりょう)の入明日記『策彦和尚初渡集(おしょうしょとしゅう)』には、1538年から39年の間に寿禎がしばしば一族と博多に逗留(とうりゅう)中の周良を訪れている記事がみえる。また寿禎は石見(いわみ)国(島根県)銀峯山(ぎんぽうさん)(仙の山(せんのやま))に参詣(さんけい)して山中に銀鉱を発見し(石見銀山)、1526年(大永6)以来採掘に従事。1533年(天文2)には博多より吹大工(ふきだいく)を同伴し、鉛を媒剤とする灰吹(はいふき)法によって銀を精錬したという(『銀山旧記』)。おそらくこの方法を寿禎は貿易商として大陸から学んだのであろうが、これは日本鉱業史上における画期的意義を有し、石見銀山が以後の鉱山開発の先駆となった理由もここにある。

[久保田昌希]

『小葉田淳著『日本鉱山史の研究』(1969・岩波書店)』『佐々木銀弥著『日本商人の源流』(教育社歴史新書)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「神谷寿禎」の解説

神谷寿禎
かみやじゅてい

生没年不詳。「神屋」とも。戦国期の博多の貿易商人・鉱業家。神屋氏の系譜では主計(かずえ)の子とするが疑問。1526年(大永6)石見国銀峰山清水寺に参詣して銀鉱を発見し,出雲国鷺浦の銅山主三島清左衛門と共同して坑道を開いたと伝える。これが石見大森銀山の発見である。はじめ船で銀鉱石を博多へ運んでいたが,33年(天文2)に博多から吹工宗丹と桂(慶)寿をともない,銀山での銀の精錬に成功。このとき,朝鮮からはじめて灰吹(はいふき)法を導入したとされる。灰吹精錬法は江戸時代に各地の鉱山で使用された。38年には風待ちのため博多の竜華院に滞在中の遣明副使の策彦周良(さくげんしゅうりょう)を訪れ,贈物をしている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神谷寿禎」の解説

神谷寿禎 かみや-じゅてい

?-? 戦国時代の商人,鉱業家。
筑前(福岡県)博多の貿易商。石見(いわみ)(島根県)大森に銀鉱(石見銀山)を発見し,大永(たいえい)6年(1526)採鉱を開始した。天文(てんぶん)2年博多の吹工(ふきこう)を移住させ,灰吹法による銀の現地製錬に成功した。この技法によってわが国の貴金属鉱業隆盛の端緒がひらかれた。

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