神道美術(読み)しんとうびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「神道美術」の意味・わかりやすい解説

神道美術 (しんとうびじゅつ)

日本の神々に対する信仰を軸に造形された宗教美術。神道は本来,自然崇拝を基調としていたため,その礼拝対象も神体山,霊木,磐座(いわくら)などの自然物であった。ある特定の自然物を神が宿るひもろぎ(神籬)として礼拝対象としていた。このような神社成立以前の神祇信仰では,古代から中世にかけて祭祀遺跡が各地に知られるが,造形作品として見るべきものは少ない。神社建築が生まれ,社殿神道が成立してはじめて,神道美術が出現するようになる。だが,神道美術の作品は,神道独自の世界から造形されたものは少なく,仏教美術の影響によって成立したものが圧倒的に多い。これは,神道そのものが仏教などの外来思想によって展開したためで,これらの作品も仏教美術の一分野である垂迹(すいじやく)美術として扱われてきた。確かに,神道が思想として成立したのは中世以後であるが,神祇に対する信仰は古代からつねにあった。しかも奈良時代から1868年(明治1)の神仏分離令にいたるまでは,神仏習合本地垂迹説によって神仏が矛盾なく同居して信仰された時代が1000年以上も続いていた。このような事実が見直され,神道美術の概念で,神仏習合による造形が総体的に把握されている。その作品分野には,神像などの彫刻,神道曼荼羅や神社縁起絵巻などの絵画,御正体(みしようたい),御神宝,神輿などの工芸があるが,広義には神社建築も含まれる。

 神道には偶像崇拝はなかったが,7世紀末には神社に神宮寺が付属して,仏像が安置されており,このころから神道にも礼拝対象の必要が迫られ,奈良時代末期から平安時代の初期に菩薩神像法体神像俗体神像が生まれた。神も人間と同じように罪業に悩み仏法に帰依するとされ,神は出家して,菩薩の称号を持った。このことから,神を菩薩の姿で表現しようとして,橘寺の日羅像,聖林寺(奈良県桜井市)の十一面観音像が造られている。これらは,寺院で見る仏像とまったく区別はつけられないが,本来は大神(おおみわ)神社の神宮寺にまつられていた菩薩神像である。また,出家した神という点からは僧形八幡などの法体神像が生まれ,出家僧の姿で神が表現された。薬師寺などに平安初期の作品がある。以上のような仏教によるもののほかに,衣冠をつけた礼装の貴族の姿で表現した俗体神像がある。松尾大社や熊野速玉大社の男神像,女神像など平安初期の遺例が知られるが,男女一対の場合が多い。これは,一族の祖先神を最初の先祖夫婦として造形したためである。こうして,日本の神々は,人格をもった像として礼拝され始めた。

 平安中期を過ぎると,神道美術も本地垂迹説による影響が見られる。これは,日本の神々が本来仏菩薩で,本地の仏がこの世に垂迹して神となって権現するという考えで,神が出家して菩薩となるという前代の考えとは代わって,神々が,本来の姿である仏や菩薩として表現される。神社で鏡をひもろぎとして御正体と称するのは古俗であったが,この鏡の表面に,仏像を線刻するようになった。鏡像とか本地仏御正体と呼び,遺品は12世紀ごろから伝わっている。また,鏡面の線刻にとどまらず,レリーフのように半肉彫の仏像をはりつけた鏡もあらわれ,懸仏(かけぼとけ)と呼ばれる。このほか,前代以来の俗体神像が線刻された鏡像もあり,垂迹神の図像も本地仏と同様に鏡に表現された。このように,本地仏,垂迹神の図像が出現することによって,春日社の四神,八幡の三所,熊野の十二所,日吉の山王七社など,平安末期には特定神社のそれぞれの神の図像が整備された。これらの神仏を曼荼羅のように配置し絵画化したものが,春日曼荼羅熊野曼荼羅山王曼荼羅に代表される〈神道曼荼羅〉である。それぞれに,本地仏曼荼羅,垂迹神曼荼羅などの形式があるが,御正体の鏡像から発生したものである。これとは別に,社殿や社景を描いた宮曼荼羅と呼ぶ形式があり,一見して,春日や熊野を浄土のような霊地と知ることができ,礼拝されていた。このほか,各神社それぞれの特殊性から,鎌倉時代には春日ならば,《鹿曼荼羅》《鹿島立影向図》《赤童子図》,熊野ならば《那智滝図》《熊野影向図》など,神影図として固有な形式をもったものが制作された。これは,鎌倉時代に流布された神国思想による神社の発展からくる多様化である。とりわけ,文永・弘安の元寇(1274,1281)によって神国思想が一段と高揚すると,神道曼荼羅は,以上のような形式のほか,宮曼荼羅に本地仏や垂迹神を加えたり,本地仏と垂迹神をともに描いた本迹曼荼羅や,神社参詣曼荼羅などさまざまな形式が生まれ,同時に量的にも多く制作された。現存遺品もこの時代から室町にいたるものが圧倒的に多い。

 以上のような礼拝対象のほか,特定の神社の縁起や霊験を説く絵巻が鎌倉期には多い。《北野天神縁起絵巻》《山王霊験記》や《春日権現験記》(1309,高階隆兼)などの名品がある。このほか,社殿の内に納められた御神宝と呼ばれる調度品があるが,これは,社殿の造営や式年造替のおりに調進されるもので,その扱いは有職故実に見るような宮廷儀礼である。また,神社の回廊は参籠する空間として使用され,そこでは,読経したり法華八講なども催され,神事のほか仏教儀礼が行われた。上記の神像や御正体,曼荼羅も,礼拝される時と場によって,神式にも仏式にもあるいは両方にもわたって,儀礼はさまざまである。これは,春日には興福寺が,山王には比叡山が,熊野には修験道が付属して,神仏も神官も僧侶もつねに接していたためである。神道美術の作品が神社や寺院のどこに置かれていたかは,重要な問題ながら,神仏分離によって不明な点が多いが,神仏同居の中から制作され礼拝された点,もっとも日本的な宗教美術として,神道美術のもつ意味は大きい。
神社建築 →垂迹美術
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神道美術」の意味・わかりやすい解説

神道美術
しんとうびじゅつ

日本固有の神祇思想に基づく美術。本来神道は偶像崇拝を行わず,多く崇敬の対象を戸外の自然物に求め,その宗教的行事は素朴な習慣となって民間に伝わることが多かったが,奈良時代の終りには仏教の影響を受け,次第に美術的要素が加わったと思われる。特に平安時代に入って密教の影響で日本の神をインドの仏の仮の姿とする本地垂迹思想が盛んになってからは,仏教にならって絵画や彫刻が盛んに制作されるようになった (→垂迹美術 ) 。その最盛期は遺品や記録から藤原時代,鎌倉時代とみられる。全般に仏教美術の影響が大きいなかで,神社建築は平安時代に仏教伽藍の影響を受けたものの比較的独自の発展を示し,日本の原始住宅との関係も考えられる。その代表的な遺構は岡山,吉備津神社本殿 (1425) ,滋賀,都久夫須麻 (つくふすま) 神社 (1602) など。絵画では礼拝像として神像画,仏教における曼荼羅を模した神道曼荼羅,説話的なものでは神社縁起絵や絵巻類,風俗画的なものでは祭礼図,社頭絵図などがある。遺品は『八幡童子神像』 (栗棘庵) ,『山王宮曼荼羅』 (百済寺) ,『春日権現験記絵巻』 (1309,宮内庁三の丸尚蔵館) ,『熊野参詣曼荼羅絵図』 (闘鶏神社) など。なお仏画との関係や神道絵画独自の性格については考究の余地が多い。彫刻では礼拝像としての神像やこれに付属する狛犬 (こまいぬ) などがある。遺品には『八幡三神像』 (薬師寺鎮守八幡宮) ,『玉依姫』 (吉野水分神社) ,『僧形八幡神像』 (東大寺,快慶作) など。その他工芸美術としては刀剣弓矢,調度品などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神道美術」の意味・わかりやすい解説

神道美術
しんとうびじゅつ

日本固有の民族的信仰である神道に基づいてつくられた宗教美術。原始的な宗教であった神道は、仏教の影響を受けると8世紀ごろからしだいに社殿を設置し、礼拝対象として神像の造立が始まる。そして中世に入ると、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説を背景に、神仏習合した法儀の場で使用するために、多くの神道曼荼羅(まんだら)などが制作されてくる。また民衆的な信仰の色彩が濃い神社では、懸仏(かけぼとけ)や御正体(みしょうたい)などを施入することも盛んとなってきた。そうした造形資料群を神道美術とよび、日本の宗教美術における特色をもった一つの類型として考えることができる。

[景山春樹]

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